ふるさとを穿る(6):三業惑乱(1)

 寛文年間(1661‐1673)に既述の小児成仏の記録があり、当時の学匠の意見は「往生可能説」と「往生不可能説」に二分されていました。この論争の中、第四代能化(本願寺派宗学を統率する職)法霖(ほうりん)は、「小児の往生は不定と知るべし。不定とは往生ならぬということにあらず。なるともならぬとも凡見にては定められぬという事なり」と述べて、判断を中止しています。

 ところで、西本願寺徳川家光の時代に「学林」を設立します。学林は江戸時代に仏教各宗派で設立した僧侶の教育機関で、学寮、談林、檀林などとも呼ばれました。江戸幕府は各宗に宗学研鑽のための就学を義務づけましたが、また各宗でも宗学を中心とする仏教研究が急速に発展し、住職となるために一定期間学林などで学ぶことを求めました。そして、学問の最高職として「能化職」が置かれました。「能化(のうげ)」の「能」は「能く(よく)」という意味で、「化」は教えるという意味です。

 しかし、「三業惑乱(さんごうわくらん)」事件が起き、この学林制度は廃止されます。三業惑乱は江戸時代中期に浄土真宗本願寺派の教義をめぐって発生した大規模な紛争です。宗派内で解決できず、最終的には幕府の寺社奉行が介入するまでに発展し、本願寺派門主寺社奉行の裁定を追認する形で決着しました。西本願寺教団史上最大の異安心事件です。

 浄土真宗本願寺派西本願寺)では、能化は教義と安心を取り仕切る最高責任者で、法主(ほっす)と同格の格式をもち、絶大な権力を持っていました。越前(福井県)ではずっと昔から、「十劫安心(じっこうあんじん)」という異安心が勢力をふるっていました。「十劫安心」は「無帰命安心(むきみょうあんじん)」とも呼ばれます。「安心」とは「信心」のことで、「無帰命」とは、阿弥陀仏に救われていない、ということです。「十劫安心」は「十劫の昔に、既に私たちは助かっているのだから、今さら求める必要はない」という信心のことです。救われてもいないのに、「私たちは既に救われている」、「救いは既に届いている」、「救われていることに気づいたのが信心だ」というようなことは、みな十劫安心を表しています。この間違いを正すため、二代目の能化知空の頃から帰命(仏に帰依すること)の一念が強調されていました。

 そして、本願寺は六代目の能化功存を越前(福井)へ派遣します。功存は阿弥陀仏をたのむ一念の体験が重要だと力説し、十劫安心を徹底的に非難しました。さらに、僧侶や門徒を集めて法話を開き、間違いを正しました。この時の法話が『願生帰命弁(がんしょうきみょうべん)』という本です。このように十劫安心を正したのですが、それによって、今度は逆の極端に振り子が振れていきます。

 1797年功存が病気で亡くなると、弟子の智洞が能化を継ぎました。智洞は能化に就任し、『大無量寿経』の講義をしているとき、全国から集まった学生に、「三業で阿弥陀仏をたのまなければ助からない」と教えたのです。「三業」は身業と口業と意業のことで、「身業」は身体でやること、「口業」は口で言うこと、「意業」は心で思うことです。「三業で阿弥陀仏をたのまなければ助からない」とは、心と口と身体でお願いしなければ助からないというものです。これを「三業安心」、「三業帰命」ともいいます。ところが、浄土真宗の教えは「信心正因(しんじんしょういん、浄土に生まれるには信じるだけでよい)」です。親鸞は「涅槃の真因は唯信心をもってす」(『教行信証信巻』)、つまり、浄土往生の因は信心だけである、と述べています。ですから、浄土真宗の基本に反する能化の講義に、誰もが疑問を持ちました。おかしいと感じた学生が智洞の講義録を持って地元の安芸(広島)へ帰り、それを見たのが大瀛(だいえい)で、彼は重い結核を患い、病床に伏していました。彼は重い病をおして講義録を読み、浄土真宗の危機だと感じたのです。大瀛は命がけで智洞の講義の不審をただす質問の手紙を書き上げ、本願寺へ送ります。「なぜ信心正因が間違いなのか」、「なぜ三業帰命でなければならないのか」が二つの質問でした。

 ところが、本願寺からの回答に疑問を深めた大瀛は、さらに16の質問を送付しました(「十六問尋書」)。これに返答がないまま、1798年に開かれた蓮如上人300回忌法要で、智洞は法主に代わって三業帰命の話をし、全国の僧侶や門徒に動揺が走りました。こうして、「三業帰命」か「信心正因」かという二つの立場に分かれて、論争が始まりました。

 大瀛は智洞の主張を論破する『横超直道金剛錍(おうちょうじきどうこんごうへい)』を書きます。そして、それは1800年冬に出版されました。

 更なる展開は次の三業惑乱(2)を見て下さい。