A君の独断的で、断片的な見解

 A君が知る仏教は門徒だった祖父母を通じてのもの。仏教はインドから中国に入り、その際に経典が漢訳され、それがさらに日本に入る外来の宗教でした。ですから、仏教の用語や概念は外来のもので、英訳しても通じそうに思えるのですが、そのようには決して考えないのが多くの日本人です。多くの日本人は鎌倉新仏教以後の仏教を通じて、仏教は日本的な思想や信仰であると考えてきました。そのため、仏教の概念や用語は日本的で、西欧の言葉で表現しにくいと考えています。

 A君は曹洞宗臨済宗黄檗宗に比べると日本的であり、浄土真宗日蓮宗も日本的な仏教だと思っています。そのためか、親鸞浄土真宗を理解する、彼の著作を英訳するとなると、大変困難だと考えています。確かに、親鸞の仏教を理解するのは達磨の仏教を理解するより厄介だというのがA君の実感です。日本化された仏教は釈迦の仏教とも、玄奘鳩摩羅什が漢訳した仏教とも異なり、とても独特です。

 A君は日本的な浄土真宗の特徴を以下の三つの基本用語から考えてみました。

(1)往生

 私たちは「往生する」と聞くと、大抵は死ぬことだと思うのではないでしょうか。ですから、死に際、辞め時の「往生際の悪さ」などが話題になります。でも、「往生」の本来の意味は、仏になり、悟りを開くために、仏の国に往き、そこに生まれることです。つまり、「往生」とは、「極楽浄土に往き、仏に生まれ変わる」ことです。極楽往生、浄土往生と言われますが、人間が死んで仏の国に生まれるのが往生であり、往生する世界は仏の世界であり、そこに生まれることが成仏することです。

 そこから、往生は「死んで、仏になること」、「死んだら仏」と転化したと考えられます。中でも自然死による他界は「大往生」と呼ばれます。この往生の意味がさらに俗化、風化し、「身のおきどころがなく、おいつめられた時」を「往生する」と言うようになったと考えられます。

 こうして、往生はキリスト教徒が亡くなり、天国に行くのとは随分違うことがわかります。キリスト教では神と人はまるで異なります。ですから、極楽往生する、つまり、死んで仏になることなどそもそもあり得ない、これがA君の結論です。

(2)阿弥陀如来、あるいは阿弥陀仏の本願

 「本願寺」という名前の寺は浄土真宗の寺だけでなく、他派の寺、国外の寺など、実にたくさんあります。では、本願寺の「本願」とは何を意味しているのでしょうか。

 地球上では「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」と言われ、釈迦のみが悟りに至ったのですが、大宇宙には地球のような天体が数えきれないほどあり、仏も数えきれないほどいて、「十方諸仏(じっぽうしょぶつ)」と言われてきました。その十方諸仏の中の本師本仏、仏の中の仏が阿弥陀如来です。つまり、釈迦を含め、どの仏も阿弥陀如来の弟子なのです。

 本願とは本当の願いということで、仏の願いは苦しみ悩む人を救いたい、幸せにしたいという願いで、それは仏の私たちに対する約束なのです。『歎異抄』では本願を「誓願」と表現しています。誓願の誓は約束です。こうして、「阿弥陀如来の本願」は阿弥陀如来の私たちへの約束ということになります。阿弥陀仏の約束は、「すべての人を絶対に幸福にすることによって救う」ということです。阿弥陀仏の約束の相手はすべての人であり、その約束の内容は絶対の幸福で、私たちを救うことを保証しています。

 これは浄土真宗の教義の核心ですが、「他力本願」の特徴を見事に表しています。阿弥陀仏の力によって本願が成就され、個人の自由意志、つまり、自力は必要ないのです。

(3)信心

 キリスト教の神学では、信仰(faith)は神の存在と啓示(神の教え)を真実として信じることです。この信仰に対応するのが浄土真宗の「信心(しんじん)」です。神や仏の力を信じて、その加護を祈ることが信仰と呼ばれるのですが、浄土真宗では、「信心というは、すなわち本願力回向の信心なり(信心は私たちが阿弥陀仏の救いを信じる心でなく、阿弥陀仏の真実のはたらき(本願力)からたまわった(回向)心である)」(『教行心証』)と言われるように、阿弥陀仏から与えられた信心=信仰です。つまり、親鸞の「信心」は、阿弥陀仏が私たちに与える信心であり、「他力の信心」なのです。これもまた、キリスト教の信仰とはまるで違っています。