鎌倉仏教は比叡山で修行した天才僧侶たちの実践活動によって生み出されました。
浄土経系の宗派(浄土宗、浄土真宗、時宗など)は、いずれも浄土三部経(『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』)に基づき、念仏を唱えることがその主な宗教活動です。中でも際立つのが浄土宗を始めた法然と浄土真宗の親鸞。法然は阿弥陀如来を信仰し、平等という考えをもって、政治権力に反対し、僧侶が寺をもつ必要がないことを主張しました。浄土真宗の開祖はその法然の弟子の親鸞。彼は徹底的に他力本願とは何かを追求し、その結果、阿弥陀如来を信じることを第一に考え、念仏至上主義を主張しました。さらに、親鸞は仏教に「善悪」の考え方を導入しました。「善悪」は儒教の倫理的概念で、空を基本とする相対論的な仏教にはなかったものです。
次に、禅宗は座禅を修行の中心に据え、経典の言葉だけでは釈迦の教えは伝わらないと考えます。教外別伝(きょうがいべつでん)、不立文字(ふりゅうもんじ)、以心伝心(いしんでんしん)と言われるように、言葉によらずに直観で悟りに至ることを重視します。そのための方法が座禅ですが、栄西の座禅は出された問題を考えながら座禅をする公案禅(こうあんぜん)です。臨済宗は栄西の後、一休や夢窓疎石などの優れた禅師が続いて登場します。曹洞宗の開祖とされる道元も座禅によって悟ることを目指し、何も考えないでひたすら座禅をする黙照禅(もくしょうぜん)を生み出しました。
そして、『法華経』を最も大切な経典として、権力に刃向かい、他の宗派をすべて否定する超過激な一派が日蓮の始めた日蓮宗です。
釈迦の基本思想という点からこれら開祖を比べてみると、生命の尊重、平等主義、個人主義の三つは程度の差こそあれ、すべての開祖に共通しています。特に、平等主義のうち権力に迎合しない姿勢はこれら開祖すべてに際立っています。偶像崇拝の禁止については、禅宗の二人は基本的に仏像は不用と思っていますから、仏像を拝むことは考えてもいません。浄土教系においては、念仏を唱えることが一種の修行方法と考えられますから、偶像崇拝の考えはやはりありません。
では、鎌倉新仏教の天才開祖たちは仏教をどのように変えたのでしょうか。一つは、開祖の個性が前面に出てきて、大乗仏教でわかりにくくなっていた仏教本来の姿がもっとわからなくなったということです。親鸞や道元などの開祖の姿や主張が目立ち、釈迦の考え自体はその後ろに隠れてしまいました。つまり、浄土真宗は釈迦の教えというよりも親鸞の宗教、曹洞宗は道元の宗教となったのです。もう一つは、開祖たちが天才だったためにその開祖の教えを改良する必要がありませんでした。それが証拠に、鎌倉時代以後に新しい思想や哲学が出てくることはありませんでした。
人々を掌握するために仏教をうまく利用したのは江戸幕府。徳川家康は二人の僧侶を巧みに使いました。天台宗の天海、臨済宗の崇伝です。天海は最澄を真似て江戸の鬼門にあたる上野に寛永寺を建立し、金地院崇伝は紫衣事件を起こしました。彼らは檀家制度を考案し、総本山-大本山-末寺の体制を作りました。この二人の僧によって、仏教は本来の宗教活動とは違う管理組織に変身したのです。江戸幕府は実に巧みで、政治の指導原理を儒教とし、統治手法に仏教寺院を利用したのです。
明治維新は仏教をやめようという廃仏棄釈運動や西洋文化を採り入れる欧化政策を取りました。これによって仏教教団は危機的状況に陥ります。江戸時代に檀家制度によって築き上げた経済力も版籍奉還によって所領の没収という形で壊滅的な打撃を受けました。ただし、浄土真宗は資産運用に所領拡張という方法をとりませんでしたので、経済力の壊滅をうまく逃れました。
仏教経典の言語であるサンスクリット語がインド・ヨーロッパ語族に属することが発見され、サンスクリット語やパーリ語というインドの古い言語の研究を出発点にして、19世紀には既に仏教経典の文献学的研究が相当に進んでいました。上座部仏教の経典が主な研究対象で、パ-リ語の阿含経典群などが含まれていました。これらの研究内容が日本に入ってくると、釈迦の考え方を比較的忠実に反映しているのは上座部仏教であって、それから大きく逸脱している大乗仏教は仏教ではないのではないかという疑問から、「大乗非仏説論争」が起こります。その結果、大乗も釈迦の教説を正しく継承したものであると決着するのですが、この時点で既存宗派に自らの教義を再評価するような動きがあれば、現在とは異なる姿が見られたのかも知れません。