(これまで「ふるさとを穿る」というタイトルで、妙高と異安心を中心に話してきましたが、現在の考えをタイトルの中の「自力、他力、自由意志」の三概念を中心に見直してみます。)
仏教は自力からスタートしましたから、わざわざ「自力」という言葉を強調する必要はありませんでした。「他力」概念が登場したため、その対概念として「自力」という言葉が使われたのです。自らの力によって仏になることを目指す道が「自力」。苦にあえぐ衆生を救う仏になりたいという(菩提)心を起こし、どのような仏を目指すのかという「願(がん)」をたて、その「願」の通りになることを誓い、「行(ぎょう)」を重ねることによって、その願いを成就し、仏になります。心を正し、行いを正していくこと、それが「行」です。「行」を重ね、自らの苦悩の根源である煩悩を超えることによって、衆生を苦しみから救う「仏」になることができます。
「行」を自力で行うことは大変に厳しいものです。どんな「行」を行うにせよ、自らすべての煩悩から離れた悟りの境地に到達しなければ、目的は達成できません。短い人生の中で、それを成し遂げる保証はなく、誰でも達成できる道ではなく、勝れた人だけしかゴールに辿り着くことができません。これが「自力」の基本です。
「自力」の道は誰にも開かれていますが、実はそのゴールに辿り着くことができる人はごく少ないのです。それでは勝れた人だけしか苦しみから解放されないことになり、その上、仏になってからも厳しい道が続きます。勝れた人しか悟りの境地に辿りつけないのでは、いつまでたっても苦しみからの解放は達成できません。そこで、登場したのが大乗仏教です。大乗とは大きな乗り物のことです。多くの人を苦悩から解放するのが大乗仏教の使命で、その中の代表的なものが「浄土教」。その浄土教の中からパラダイムシフトが起こります。それが浄土宗や浄土真宗に見られる「念仏」の教えです。浄土真宗の開祖親鸞は比叡山で20年の修行に励みました。しかし、そこでわかったのは「行」を最後まで修め切ることのできない自分の姿です。そこで出会ったのが浄土宗の開祖法然。彼は「南無阿弥陀仏」という念仏一つで救われることを親鸞に教えます。では、なぜそれが可能なのでしょうか。仏となるためには、仏になって苦にあえぐ人を救いたいという菩提心と「願」、そしてその願を成就させるために「行」を修めることが不可欠です。しかし、一般の人たちが菩提心を起こし、「願」をたて、「行」を修めることは、とてもできそうにありません。でも、実はそのことを見通していた「阿弥陀仏」のいることが経典に述べられていました。その経典は、『無量寿経』、『観無量寿経』、そして『阿弥陀経』。そこで説かれる阿弥陀仏は、自分の力で「願」を起こすことも、「行」を修めることもできない人を必ず救うと願い、仏となることを誓った仏です。阿弥陀仏が私に代って「願」と「行」を完成させ、それを「南無阿弥陀仏」という言葉に込めて私に届け、私はその「南無阿弥陀仏」と念仏するだけで、阿弥陀仏の浄土に往生し、仏に成ることが約束されるという仕組みで、実に見事なシナリオです。
この阿弥陀仏の力による成仏の道に私の力は全く介在しません。阿弥陀仏は私が仏になるために必要な事柄を準備してくれます。私はそれをただ受け取るだけです。「他力」は「他人の力を当てにする」というようなネガティブな意味に使われますが、ここでの「他力」の「他」は誰を指すのでしょうか。親鸞は「他力といふは如来の本願力なり」と言います。如来は阿弥陀仏ですから、他力は阿弥陀の本願(あらゆる命を必ず救うという願い)の働きであると理解できます。
では、キリスト教での他力と自力はどうでしょうか。キリスト教ではこの世界の歴史にはいつか終わりがあり、その時に最後の審判が行なわれ、その後は天国と地獄が永遠に続くと説かれています。ですから、人間にとって本当の悪は永遠の罰だけで、そこに落ちる原因が罪ですから、この世で恐れるべきただ一つのことは罪を犯すことであるという簡単な結論になります。また、「救われる」とは天国に行き、そこで永遠の命を楽しむということです。
仏教の自力本願は自分の努力によって、つまり厳しい修業によって悟りを開くという考えだと述べました。他方、他力本願は救いが人間の力では達成不可能で、ただ仏の慈悲にすがるしかないという考えです。親鸞によれば、生涯に一度だけでも「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、どんな悪い人でも救われます。それでは、キリスト教は自力本願、他力本願のどちらなのでしょうか。プロテスタントの創始者ルターは親鸞とほぼ同じ考え方をします。つまり、ルターは人間がアダムとイブの原罪によって堕落し、人類はその堕落し切った本性を引き継いでいるから、よい行いができない、つまり、人間がする行いはすべて罪だと考えました。でも、キリストを信じたら、その信仰のみによって救われる、とルターは述べています。これは100%の他力本願です。また、ルターは、人間はよいことができないと述べ、人間の自由意志を否定したのです。
それに対して、カトリックも天国に行くのは人間の力では無理で、神の助け(恩寵)がいると説きます。でも、人間の側から何もできないのではなく、人間も神の助けを受け入れて協力する必要がある、と述べます。アウグスティヌスは「神はあなたなしにあなたを造られたが、あなたなしにあなたを救うことはない」と説明しています。カトリックでは人間に自由意志を認めます。ですから、カトリックの考えでは、地獄に落ちる人がいるならば、それはその人が自由に悪を選択した結果である、つまり自業自得となります。
でも、問題はそう簡単ではありません。なぜならば、「人間は自由でも、神は初めから個々の人間が何をするかを知っています。地獄に落ちる人がいるなら、神はそのことをわかった上でその人を造るのですから、結局人間の運命は前もって決まっていて、自由はない」と反論ができるからです。そして、このように考えたのがカルヴァンです。
これに対して、カトリックはカルヴァンの運命予定説を誤りと断罪します。このような議論の決着をつける拠り所を問われれば、それは聖書。聖書が神の言葉を記していると信じるキリスト信者は、浄土真宗や浄土宗が特定の経典に頼るように、聖書に頼ります。神がすべての人の救いを望むことは、聖書の幾つかの箇所からもわかりますから、神が人をわざと地獄に落とすために造ったことはありえないことになります。