他力本願の仏教とキリスト教はよく似ている?

 昨日「『歎異抄』の謎」で、『聖書』と『歎異抄』は共に他力による救済という点でよく似ていると述べました。そこで、「他力」の救済や本願を比較してみましょう。
 浄土真宗での極楽往生は「阿弥陀如来」の本願による「完全他力」です。キリスト教でも、アウグスティヌスは救済が主の慈悲によると考えました。これは親鸞に近い考えです。

 親鸞の「他力本願」は、自分が帰依するのではなく、阿弥陀如来によって帰依させられる、自然にそうせざるを得なくなるというものです。帰依できるのは個人の能力でも努力でもなく、阿弥陀如来から賦与された信仰心です。

 道元の信仰、親鸞の信仰、釈尊の信仰…、そして、ナザレのイエス自身の信仰、パウロの信仰、マルコの信仰等々、いずれも表面上は異なって見えます。仏教では人が救いに至るプロセスは他力本願であると説明する宗派(浄土門)と自力本願であると説明する宗派(聖道門)があり、阿弥陀仏に帰依して念仏を唱えることによって浄土へ行けるという浄土教は他力本願、そして、座禅を組んで、悟りに至ることを重要視している禅宗は自力本願と一般に理解されています。釈迦が説いた仏教(小乗仏教)は、執着と欲望の煩悩を脱却して「やすらぎの境地」に至ることが悟りだと主張します。悟らなければ仏にはなれない訳ですから、そこでは個人の悟りが重要視されるということになります。

 中国を経由して伝来した仏教は大乗仏教ですが、修行者(僧侶)が仏教の精神を説くことによって、人々が修行せずとも仏教を信仰することは可能だと説くものです。日本の仏教は聖道門と浄土門に分かれ、前者には天台宗真言宗禅宗曹洞宗臨済宗など)が、後者には浄土宗・浄土真宗時宗などが分類されます。鎌倉時代衆生が修行によって悟りを開き、成仏することが困難な民衆の救済を説く鎌倉仏教が登場しました。浄土宗の開祖法然は、ただひたすらに「南無阿弥陀仏」を唱えることが大切だと説いています。念仏を唱えれば阿弥陀仏の慈悲の心によってその人は極楽浄土に迎えられ、そこで仏となることが許される(弥陀の本願)というのです。

 カトリックキリスト者の信仰は「己を無にして父なる神の導きに従って生きる」ことだと説明されます。己を無にするとは自分の価値観ではなく、神の導きに従って生きることです。キリスト教の信仰は、浄土門の信仰によく対応し、類似しています。

 キリスト教の予定説はカルヴィニズムに最も典型的に現れていますが、全知全能の唯一絶対神がすべてを創造し、すべてを決定するのであって、完全に無知無能の個人は、神のなすことについてまったく何も知り得ないし、それを微塵も動かすことはできないという思想です。個人がどれほど努力して善行を積もうが、彼が救われるか救われないかには何の関係もなく、あらかじめ神が決めているのです。この思想では、絶対的に偉大な神と、最低にみじめな個人とが著しい対比を成しています。100%他力は自由意志が何もないことになります。