ふるさとを穿る(9):現在の異安心の一例

 ニーチェが「神は死んだ」と叫んだ遥か以前に、神仏を否定し、自ら解脱を目指したのがブッダ。私のような凡人には理解しがたい決断、行為で、禁煙やダイエットで四苦八苦する私たちには到底到達できない目標です。極めてストイックな自己管理と座禅による心理的な改造は、自己を信頼し、その自己を超越する歩みであり、超人による精神的コントロールの完成です。

 ブッダの仏教は私たちが馴染んでいる大乗仏教とは似ても似つかぬもの。禅宗の座禅や瞑想が僅かに重なりますが、その訓練の度合いは桁違いです。レースやゲームを実際に行う競技者とそれを楽しむ観客を比べたとき、ブッダの仏教は競技者が最後まで競技するためのノウハウ、手引きです。でも、その後の大乗仏教は競技者だけでなく、観客も含めての仏教です。大乗仏教の方便によれば、ブッダ、つまり釈迦(釈迦如来釈迦牟尼仏)と阿弥陀仏阿弥陀如来)は違う仏で、阿弥陀仏はすべての仏の師匠。一方、ブッダ阿弥陀仏の弟子です。阿弥陀仏の力は強力で、私たちの苦しみの根元である「無明の闇」を破ることができ、この力は「本願他力」、「他力本願」と言われます。自力のブッダに対し、他力の本願は様々な異安心を生み出し、論争を生み出してきたのですが、それが現代も続いています。

 異安心の話を続けてきましたが、浄土真宗本願寺派は今も揺れています。2023年1月、室町時代につくられた聖典の現代版を大谷光淳(こうじゅん)門主が示したところ、全国の僧侶や門信徒から不満が続出したのです。『改悔文(がいけもん)』は蓮如真宗における信仰の在り方を示すために作成した文章で、本願寺派は『領解文(りょうげもん)』と呼びます。この文章は僧侶になるための「得度式」のほか、法要や説法を聞く法座の後などで暗唱されてきました。でも、室町時代の文章のため、現代では意味が伝わりにくく、多くの人たちに分かりやすく伝えるために、大谷門主が1月に示したのが「新しい『領解文』(浄土真宗のみ教え)」でした。

 領解文の精神は受け継ぎ、現代語で教えを解説する内容で、時代に合った言葉で伝えていくことが伝道教団の使命だと大谷門主は呼びかけました。総局が普及に向けて動き出すと、一部の僧侶らが「教義と異なる」とSNSなどで相次いで反対の意見を表明。

 さらに、本願寺派の最高位の「勧学」と、それに次ぐ司教計33人のうち、過半数となる計19人が文章の取り下げを求める「有志の会」に名を連ねました。代表を務める深川宣暢(のぶひろ)勧学は、5月下旬に京都市内で開いた記者会見で、自分の煩悩と仏のさとりを同一視する部分が特に問題で、「人間は死ぬまで煩悩の中にある存在というのが親鸞聖人の教えだ」などと指摘し、新しい領解文を総局の責任で早急に取り下げるよう求めたのです。

 「どうして生じた?領解文問題/オンライン講座」などで、詳しい内容を知ることができます(https://note.com/ryouge/n/n714b21ad113a?magazine_key=m44609759e0f8)。これ以外にも異安心の問題はまだまだ穿ることができ、教義に関する多くの未解決な問いが埋まっているのです。