『歎異抄』の謎

 浄土真宗には10の宗派(真宗十派)があり、中でも浄土真宗本願寺派西本願寺)のことを「お西さん」、真宗大谷派東本願寺)のことを「お東さん」と呼びます。大谷派は自らを「真宗大谷派」と呼びます。各宗派の教義は親鸞の教えに基づき、基本的に同じです。

 浄土真宗の特徴と言えば、特別な修行を必要としないことです。座禅や瞑想といった「修行」をしません。これは他力(=阿弥陀如来の本願)によってのみ人は救われるという考えからきています。求められるの称名念仏(「南無阿弥陀仏」を称えること)だけです。次の特徴は戒律がないことです。浄土真宗には日常生活の戒律がありません。ですから、肉食妻帯、結婚は許され、肉類を食べても構いません。次の特徴は、悪人でも救われるという教えです。この特徴を述べたのが『歎異抄』で、「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」と主張されています。理解し難い内容で、戸惑ってしまいます。見事な文章の『歎異抄』は、異安心(異端)の糾弾を通じて親鸞の教えを説きます。『歎異抄』の10章までは親鸞の教えを述べ、11章から18章までは親鸞没後に登場した異安心の教説を質したものです。ですから、「異なるを歎く」のは11章から18章です。「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」は矛盾した文にみえますが、論理的な破綻はなく、読み手の心を鷲掴みにします。

 

善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。

(善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる。)  

しかるを世の人つねにいわく、「悪人なお往生す、いかにいわんや 善人をや」。

(ところが、世間の人はいつも 「悪人でさえ救われるのだから、善人はなおさら救われる」 と言っている。)

この条、一旦そのいわれあるに似たれども、 本願他力の意趣に背けり。

(これは一見それらしく聞こえるが、阿弥陀仏が本願をたてられた趣旨に反する。)  

そのゆえは、自力作善の人は、ひとえに他力をたのむ心欠けたる間、弥陀の本願にあらず。

(なぜならば、自分の力で後生の一大事の解決をしようとしている間は、他力をたのむことができないので、阿弥陀仏の約束の対象にはならないのである。)

しかれども、自力の心をひるがえして、 他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を遂ぐるなり。

(しかし、自力を棄てて他力に帰すれば、 真実の浄土へ行くことができる。)  

 

 善人でさえ助かるのだから、まして悪人は助かる、となれば、不条理、あるいはパラドクスではないのでしょうか。しかも、それが親鸞の言葉となれば、誰もが驚きます。本当に親鸞は悪人こそが助かると述べているのでしょうか。悪人でさえ助かる、だから善人はなおさら助かる、という世間の考えはもっともらしく聞こえますが、それとまったく逆のことが述べられています。親鸞の目的は「本願他力の意趣を明らかにするため」です。「善人なおもって往生をとぐいわんや悪人をや」は他力本願の本質を述べているのです。「本願他力の意趣」とは阿弥陀仏の本願のことで、「弥陀の誓願」と表現されています。

 阿弥陀仏は「万人は悪人だ」と見抜き、その悪人と約束したとしてみましょう。約束の相手は善人ではなく、助からない悪人です。悪人に対して約束したのが阿弥陀仏の本願なのですが、「万人=悪人」と親鸞が考えたのであれば、『歎異抄』の第3章は至極当たり前の主張となります。悪人も善人も見掛けの区別に過ぎなく、どちらも本来は悪人なのだ、つまり万人は悪人だとなれば、「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」と「悪人なおもって往生を遂ぐ、いわんや善人をや」とは論理的には同じことを述べていることになります。

 ここでは原罪と救済の関係が、悪人と本願の関係に重なっています。救済や本願を必要とするのは、人の本能が煩悩を引き起こすことにあります。アダムとイヴが「知る」という本能に目覚め、自由意志をもち、欲求をもつようになることと、人が生得的に煩悩に苦しむこととはこの現世の世界では同じようなことです。そして、その救済にはキリストや阿弥陀仏の他力に頼ることしかないという主張もとてもよく似ています。

 まとめれば、(1)万人は悪人(罪人)である、(2)本能は煩悩である、(3)救済は他力による、の三つの事柄がキリスト教真宗に共通していて、それらが見事に述べられているのが『聖書』であり、『歎異抄』なのです。そして、これが謎に対する私なりの答えのアウトラインです。