ふるさとを穿る

 願生寺編『新・願生寺正鑑』(2023、法藏館)が12月に刊行され、第一部から第四部までの534ページに及ぶ願生寺の歴史とその資料からなっています。以前小児往生の異安心に関して願生寺と浄興寺の間の論争について述べたことがありました。この歴史書の刊行に関連して、これまで述べてきたものを再度まとめ直してみました。

ふるさとを穿る(1)

 妙高市には今でも私学の高校はありませんが、私が住んでいた頃には妙高の隣の板倉町(現上越市板倉区針)に私立の有恒学舎がありました。有恒学舎が県立の有恒高等学校になったのは1964年で、1966年に私は上京したため、私の記憶はもっぱら私立の時代のものです。

 戊辰戦争高田藩預かりとなった会津藩士南摩綱紀(なんまつなのり)の影響を受けたのが増村度弘(のりひろ)。彼は学校を創って郷土の人材を育成しようと考えました。そして、その遺志を受け継いだのが子の増村朴斎です。彼は父の遺志を継ぎ、28歳で有恒学舎を設立しました。明治29年勝海舟から「有恒学舎」の扁額が届けられ、開校式には東洋大学創設者である井上円了が出席しました。

 孔子の『論語』から校名がとられ、「有恒」とは「他にまどわされない一定不変の心を持つ」ということを意味し、増村はそのような心をもつ人間を育成することを目指したのです。有恒学舎は「西の松下村塾、東の有恒学舎」とも呼ばれました。

 有恒学舎創立から10年後の明治39年から4年間英語教師として有恒学舎に在職したのが会津八一です。八一は明治14年新潟市古町通五番町に生まれました。彼は25歳で早稲田大学卒業直後、新進の英語教師として有恒学舎で教え、明治43年に辞任して上京、坪内逍遙に招かれ、早稲田中学校の英語教師となります。その後、早稲田大学文学部講師となり、東洋美術史を講義、さらに昭和6年早稲田大学文学部教授となります。

 八一は職業的な書家ではありませんが、西川寧が日展の審査員に推挙したほど実力がありました。その書は清廉そのもので私の好きな書の一つです。八一は自らの住まいを「秋艸堂(しゅうそうどう」と号していました。20代後半からこの号を用いていて、「秋艸堂」の「艸」は、草を総称する語句で、彼が秋の草花を好んだところから命名されました。妙高の「艸原祭」にも使われる文字ですが、妙高は春の草で、八一の場合は秋の草が意味されています。新潟県人ならほぼ毎日見る「新潟日報」の題字は彼が書いたものです。板倉での青春時代、八一は小林一茶の俳句の収集につとめ、新井から柏原まで埋もれた一茶の俳句を随分発見しています。増村朴斎の書も有名で、2018年9月には上越市のゑしんの里記念館で「朴斎先生生誕150年記念遺墨展」が開かれました。

*佐川急便をつくった佐川清は有恒学舎の卒業生です。神輿が有名な富岡八幡宮の境内には日本一大きい大神輿が飾られています。紀伊国屋文左衛門が奉納した神輿は関東大震災で焼失してしまい、佐川が総金塗り大神輿(一の宮)を奉納しました。これはあまりにも重すぎて、担ぐことができず、そのため、平成9年には宮神輿(二の宮)がつくられました。

 江戸時代に真宗学の学寮を設けていた由緒ある寺院が姫川原にある正念寺で、一時我が家は檀家になっていたようです。そのためか、何度も祖父や祖母と正念寺に行ったのを憶えていて、私は姫川原の寺と呼んでいました。まだ小学校入学前ですから、正念寺が三葉勧学精舎として有名だったことなど一切知りませんでした。ですから、機会があれば、再訪してみたいと思っています。

 正念寺は本願寺派西本願寺)に属しています。「三葉勧学」とは、江戸後期の住職であった興隆、僧朗、慧麟の親子三代が勧学(当時の教学の最高の階位)となっていたことを表すもので、文字通り学問の寺でした。

 江戸時代後期、正念寺は「三葉勧学精舎」と呼ばれました。三葉勧学とは、江戸後期に六世興隆、僧朗、慧麟の親子三代の住職が西本願寺の学林の教授となり、正念寺に崑崙社(こんろんしゃ)をつくり、その学寮に学僧を寄宿させて、真宗学を教えていました(崑崙は中国古代の伝説上の山)。今でも山門の前に「三葉勧学精舎」の大きな碑があります。

 勧学の任期は終身制で、数名の勧学らによる勧学寮という門主の諮問機関である組織を設置し、教学的問題に対して答える役割を持っていました。

キリスト教の神学は自然神学と啓示神学に分かれていて、トマス・アキナスがそれらをまとめましたが、真宗学は浄土真宗の宗祖親鸞の思想を研究し、明らかにする学問です。他力本願の思想、二種深信、悪人正機、二種回向などが研究対象です。江戸時代になると、東西本願寺がそれぞれ学寮や学林を設け、学生を寄宿させて真宗学を学ばせました。また、私塾が全国的に勃興し、その実力は学林を凌ぐ力を持っていました。正念寺の崑崙社もそのような真宗学の塾でした。訓練中心の禅問答に比べると、真宗での論争は真剣そのものでした。特に、異安心(異端)に関わる論争は有名で、高田の浄興寺と新井の願正寺の論争はその一例です。明治以降、東西の本願寺は西洋式の大学制度を取り入れ、現在の龍谷大学大谷大学になっています。

**『浄土真宗 本願寺派 西本願寺学僧 慧麟 僧温 一行書 牡丹花之富貴者也 肉筆 晩年80歳書 崑崙社三葉勧学 周茂叔の語 江戸後期幕末 越後の人』

***「立教開宗七百年慶讃 勧学表彰紀念絵葉書 3枚組 新潟県島坂村姫川原 三葉勧学精舎 正念寺」立教開宗700年の記念事業は1923(大正12)年に始まったので、その時の正念寺の絵葉書と思われます。

****上記の**と***はいずれもオークションに出ているもので、検索して画像を確認してみて下さい。

 

ふるさとを穿る(2)

 異端審問(Inquisitio)は中世以降のカトリック教会で正統な信仰に反するという疑いを受けた人を裁くために設けられました。異端審問を行うのが「異端審問所」。中世初期の異端審問、スペイン異端審問、ローマの異端審問の三つに大別でき、それぞれが異なった時代背景と性格を持っています。異端審問は15世紀以降のスペインにおいて特に苛烈でした。その理由はレコンキスタが完遂された後、キリスト教純化政策をとったフェルナンド5世が、「表面上はキリスト教に帰依するも、実際には自分たちの信仰を守り続ける国民」を排斥しようとしたことにあります。

 私たちの多くが知っているのはガリレオ・ガリレイで、彼は当時のキリスト教的世界観とは大きく異なるコペルニクスの地動説を支持したために、二度も宗教裁判にかけられました。1633年に『天文対話』が地動説を弁護し、聖書の教えに背くとして告訴され、異端審問所で裁判が行われました。同じく地動説を支持したブルーノが火刑にあったこともあり、ガリレイは自説を撤回しましたが、終身禁固の判決を受け、『天文対話』は禁書になります。

 もう一つ私たちに馴染みのあるのが幼児洗礼です。キリスト教には宗教についてまだ自覚できない幼児に洗礼を行う教派と行わない教派があります。東方の正教会カトリック教会、聖公会ルーテル教会などはいずれも幼児洗礼を認めていますが、バプテスト教会アーミッシュなどはこれを認めず、立場が分かれています。

 さて、これとよく似ているのが仏教の小児往生です。小児が極楽往生できるというのが小児往生で、意見が分かれます。越後では、子供に御文を抱かせ、大人が代わりに「この子の後生助けたまえ」と頼めば、生後間もない小児でも極楽浄土に往生できるという「御名(おな)がけ」の儀式がありました。(革新的な)新井の願生寺はこれを自覚的帰依がないと批判し、15歳以下の小児往生を否定しました。上記のバプテスト教会アーミッシュの考えに似ています。一方、(保守的な)高田の浄興寺は小児往生を(全ての人を仏にするという)弥陀の本願に合わせて認めたのです。その結果、二つの有力寺院はいずれが異安心(異端)かで激しい論争を繰り広げることになりました。

 これが大問題なのは、信仰にとって自覚が不可欠であるというのが仏教の正論でも、小児の往生を除外すれば、十方衆生を救うと誓った阿弥陀如来の本願と矛盾するからです。結局、本山東本願寺は願生寺の主張を異安心と裁定しました。喧嘩両成敗なのか、「御名がけ」の作法も否定したのです。

 こうして、キリスト教でも仏教でも、信仰に自由意志や自覚が必要か否かということと神や仏が全知全能的な力をもつこととの間の矛盾を共有していることがわかります。

 マルティン・ルターは、幼児洗礼が「神の賜物」であり、完全に受動的な聖霊の働きと考え、洗礼による聖霊の働きによって、心からの信仰の告白に導かれると理解しました。自由意志を認めず、すべてを神の意志とするルターなら、幼児洗礼も成人洗礼も違いはありませんから、何ら問題は生じません。でも、自由意志を認める人にとっては、自由意志に従って洗礼を受けるか否かは大きな問題となります。

 現在、大谷派には帰依することを自ら表す帰敬式という儀式があり、受式年齢に制限はなく、生後間もない小児にも法名が与えられます。しかし、帰依がわからない小児や死者には帰敬式は不可能です。でも、無自覚者こそ、キリストや阿弥陀如来が救済しようとする人たちです。ここに矛盾の源があります。帰敬式の受式年齢制限を廃して、如来が与える凡夫往生を実現するにはどのような理屈が必要なのでしょうか。

 今でも問題は未解決のままです。でも、信仰をもつきっかけや発端に私たちの自由な意志が関わり、それをどのように理解するかによって様々な立場が分かれるのは確かです。ですから、小児往生や幼児洗礼は自由意志に密接にかかわっていて、そう簡単には解決できそうもないことだけはわかります。自由意志と神の全知全能性の対立関係について既に述べましたが、小児成仏や幼児洗礼の問題は実はこれと同根の問題だったのです。

 この問題がはっきり取り上げられたのが三業惑乱と呼ばれるもう一つの異安心問題です。よく見ると、小児往生と同じように、自由意志の有無が問題になっていることがわかります。

 

ふるさとを穿る(3)

 死後に極楽往生するには、一心に仏を想い、念仏する以外に方法はないと説き、浄土教の基礎をつくったのが源信の『往生要集』。源信が考える念仏には観想するための仏と、救済するための仏が併存したままでした。それが止揚され、総合された結果として、浄土宗、浄土真宗が生まれることになります。

 浄土真宗の小児往生の議論は近世の教団確立期に大きく揺れ動き、まだ信心を得ていない小児に往生が可能なのか、不可能なら弥陀の本願に背くのではないかという疑問は、「異安心(いあんじん)」問題として何度も議論されてきました(異安心=異端)。

 この問題が論争となった舞台が越後。越後と北信濃触頭寺院(ふれがしらじいん)として絶大な力を誇っていた新井(現妙高市)の願生寺と親鸞聖人の居多ケ浜上陸以来のゆかりの有力寺院だった高田(現上越市)の浄興寺との間に教義論争が起こります。多くの末寺門徒と本山東本願寺を巻き込んだ論争の裁定には寺社奉行までが乗り出す始末となりました。論争となった問題は「小児(15 歳以下の者)は往生して仏になれるか」でした。「小児は往生できる」という浄興寺方と、「小児は往生できない」という願生寺方との主張が真っ向から対立し、論争は願生寺方が敗れて終わります。その結果、願生寺は取り潰され、新井別院へと姿を変え、浄興寺は自らの地位を守りました。

 阿弥陀仏の「本願」は阿弥陀仏の本当の願いのことであり、私たち一人一人を間違いなく救おうという願いです。そのような願いが、私がこの世に生まれてくる以前から、既に私に差し向けられ、私のために用意されています(そこには大人も子供も違いはない筈ですが…)。釈迦がたまたまこの世に生まれ、たまたま仏になり、人びとに教えを説いた、ということではありません。この世に現れたのは、ただこの私を救ってやりたいという阿弥陀仏の本願が、私に差し向けられている、その事実を私に教えようとしているためである、と考えられています。小児は弥陀の本願を知る由もないのですが、それでも阿弥陀仏はその小児を救うために存在するという状況をどれだけ重視するかで意見が分かれることになりました。小児の信仰を小児の意思に基づいて考える願生寺側と、小児の信仰を阿弥陀仏の本願をもとに考える浄興寺側とで、小児往生が可能か否かの答えが異なるのです。

 では、キリスト教での小児往生(幼児洗礼)はどうなのでしょうか。子供は「無邪気」で、何ら罪はないというのは間違いで、大人だけでなく新生児や子供も神の前に等しく有罪です。アダムとイブから受け継がれた原罪を子供はその両親から受け継いでいます。例えば、詩篇51篇でダビデは「ああ、私は咎あるものとして生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました」と述べています。新生児はアダムの原罪の結果です。

 子供も大人も神の前に有罪で、神の聖さを侵害したのですから、その人がキリストへの信仰によって赦しを受ける以外に道はありません。では、赦しを受けるという個人的な選択をする能力のない子供たちはどうなるのでしょうか。責任をとれる年齢に至らない子供たちは神の恵みと憐みによって自動的に救われるというのが、その答え。こうして、キリストに従うか反するかを決めることができる前に死んだすべての人が救われます。

 結果だけ見るなら、カトリックと浄興寺は似た立場で、小児は往生できます。でも、宗教改革後のプロテスタントの一般的な立場は小児洗礼を認めないものであり、信仰が自覚的な判断を求めることを強調しています。それゆえ、信仰と往生の関係は一筋縄ではいかないことがよくわかります。

 このように仏教とキリスト教を比較するなら、過去の正統と異端、他力と自力、自由意思の有無、安心と異安心などが次々と浮かび上がり、歴史そのものが迫ってきます。ここで私が確認しておきたいのは宗教論議の根底にある土台の危うさです。上の例が示す共通点はいずれも「解釈」だということです。それも事実や出来事、現象の解釈ではなく、何かの主張、意見についての解釈なのです。ですから、小児往生の是非について、それは多数派、少数派の違いに過ぎないという解釈も可能であり、「注釈」によく似た行為なのです。「信じる」という行為の中に咲いたあだ花のようなものがこの種の論議で、そのためかとても人間的です。

 科学では理論の解釈より理論の真偽が重要で、理論が何を主張しているかの確認のためだけに解釈が求められます。それが、(真だと取り決めた)憲法では真偽より解釈が圧倒的に重要になります(科学と法律での大きな違いが使われている言語です)。宗教でも真偽の問題は(信仰によって、真に決まっているので)最初から問題にならず、解釈だけが問題になるのです。ところが、解釈は(歴史の中で)状況次第で変わりますから、憲法や信仰は変わらなくても、それらの解釈はローカルな状況や文脈の中で変わり続けるのです。

 

ふるさとを穿る(4):『歎異抄』と異安心

 「異端」となれば、ガリレオの異端審問を思い出す人が多い筈です。浄土真宗では異端を「異安心(いあんじん)」と呼んできました。その異安心の歴史を遡れば、親鸞の教えに反する考えを嘆き、憂い、正す『歎異抄』に到達します。鎌倉時代後期に書かれた『歎異抄』の作者は唯円とされています。書名は教団内に生じた異安心を嘆いたものです。

 1256(建長8)年、親鸞は実子の善鸞を破門します。これから遡ること約20年の1236(嘉禎2)年頃、親鸞が東国から京に帰った後、東国では様々な異義が生じ、異端を説く者が現れ、東国門徒の間に動揺が広がります。そこで、親鸞は息子の善鸞を事態収拾のために派遣します。でも、善鸞は異端者をうまく説得できず、自ら親鸞から真に往生する道を伝授されたと称し、自らの教えを説きました。善鸞が異端を説いていると知った親鸞は、秘事を伝授したことはないと東国門徒に伝え、善鸞に義絶状を送り、親子の縁を切り、破門しました。その後、関東から上洛して親鸞に事を質したのが、唯円を含めた一行でした。親鸞の死後も、法然から親鸞へと伝えられた真宗の教え(専修念仏)とは違った教義を説く者が後を絶ちませんでした。唯円が『歎異抄』を著した時期は、親鸞没後30年の後(鎌倉時代後期、西暦1300年前後)と考えられています。この短い著作は以下のような構成になっています。

 

真名序

第一条から第十条まで-親鸞の言葉

別序-第十一条以降の序文

第十一条から第十八条まで-唯円の異義批判

後序

流罪にまつわる記録

 

  真名序はこの文を書いた目的が記され、それは「先師の口伝の真信に異なることを歎く」ことです。関東の教団は善鸞の事件もあり、異義が起きやすい土地で、親鸞が亡くなることによって、それが一層加速しました。

第一条-第十条

 第一条から第十条は、親鸞が直接唯円に語ったとされる言葉が述べられます。第一条では弥陀の本願はただ信心が要であることが説かれ、唯円はこの言葉を、関東から上洛して善鸞事件について親鸞に質す僧侶の一人として聞いています。親鸞は彼らに対し、弥陀の本願念仏以外に往生極楽の道はないが、念仏を取捨選択するのは各々の自由であると答えています。第三条は、「悪人正機説」を説いたもので、現在でもよく引用されます。第四条は、聖道仏教と浄土仏教の慈悲の違いが説かれています。

悪人正機説親鸞の根本思想。『歎異抄』に「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや(善人でさえ浄土に往生できるのだから、まして悪人はいうまでもない)」とあり、これが悪人正機の考えです。善人は自己の能力で悟りを開こうとするが、煩悩にとらわれた凡夫(=悪人)は仏の救済に頼るしかないとの気持が強いため、阿弥陀仏に救われるとしました。これは絶対他力の考えにつながっています。本当に悪をなしてきた人たちですら、阿弥陀仏はあわれに思われ、手を差し伸べ、救いとろうと願われたのです。もし、自力で修行して悟ることができれば、阿弥陀仏は救いの手を差し伸べる必要はありません。ですから、阿弥陀仏の本願をたのみとする他は何の力ももっていない「悪人」こそが、浄土に往生するにふさわしいのです。

別序

 親鸞の弟子から教えを聞き念仏する人々の中に、親鸞の仰せならざる異義が多くあると述べます。

第十一条-第十八条

 第十一条以降は、異義を個別に取り上げ、その理由を逐一述べていきます。経典を読まず、学問もしない者は往生できないという人々は、阿弥陀仏の本願を無視する人だと断じます。また、どんな悪人でも助けるのが弥陀の本願であっても、わざと好んで悪を作ることは邪執であるとした上で、悪は往生の障りではないことが説かれます。

後序

 親鸞法然から直接教えを受けていた頃、「善信が信心も、聖人の御信心もひとつなり」(自らの信心と法然の信心は一つである)と言い、それに対し他の門弟が異義を唱えました。それに対し法然は、「源空が信心も、如来よりたまわりたる信心なり。善信房の信心も如来よりたまわりたる信心なり。されば、ただひとつなり。」(阿弥陀仏からたまわる信心であるから、親鸞の信心と私の信心は同一である)と答えました。唯円は、上記のように法然在世中であっても異義が生まれ、誤った信心が後に伝わることを嘆き、本書を記したと述べています。

  さて、異安心は正統なものへの異議申し立てですが、何が正統で、何が異端かは実は判明でない場合がほとんどです。「あれか、これか」の二分法で正統と異端が区別できるかのように思いがちですが、実はそのような区別は夢に過ぎないのです。ガリレオの異端審問より30年ほど後に起きた異安心事件を次に考えてみましょう。親鸞が説いた「安心(あんじん)と異安心」の区別は厄介そのものなのです。禅の公案と比べてみても、公案が練習問題であるのに対し、異安心かどうかの問題はより現実的で、しばしば政治的な問題でもあるのです。

 

ふるさとを穿る(5):余談

 異安心の論争はまだ続くのですが、余談として、異安心や異端は現在でもなくなることはなく、キリスト教や仏教では今でも教義に関する主要な問題になっていることを述べておきます。ですから、小児往生や三業惑乱は歴史的な問題であると同時に、今でも問題であり続けているのです。

 私たちが救われるのは神の一方的な計画であり、「私が信じる」という私の自由意志は全く関係していないのでしょうか。信者の中には自分の自由意志でキリスト教信仰を選んだ人がたくさんいる筈です。ところが、キリストは「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)と言われます。では、神が私の意志と行動をすべて支配しておられることと、私の自由意志、そして私の責任はどのような関係にあるのでしょうか。この問いとその状況は小児往生や三業惑乱の論争の状況にとてもよく似ています。例えば、「私たちは自分の力で救いを勝ち取ることはできず、救いはすべて神の主権と恵みによって私たちに与えられるものです」と言う主張は、「信心正因」や「悪人正機」とよく似た主張になっています。

 こうして、キリスト教浄土真宗とで似たような問題に直面し、それは長い歴史を持ち、共に今でも解決されたとは言えないことになります。それが信仰と自由意志との関係なのです。

 

ふるさとを穿る(6):三業惑乱(1)

 寛文年間(1661‐1673)に既述の小児成仏の記録があり、当時の学匠の意見は「往生可能説」と「往生不可能説」に二分されていました。この論争の中、第四代能化(本願寺派宗学を統率する職)法霖(ほうりん)は、「小児の往生は不定と知るべし。不定とは往生ならぬということにあらず。なるともならぬとも凡見にては定められぬという事なり」と述べて、ものの見事に判断を中止しています。

 ところで、西本願寺徳川家光の時代に「学林」を設立します。学林は江戸時代に仏教各宗派で設立した僧侶の教育機関で、学寮、談林、檀林などとも呼ばれました。江戸幕府は各宗に宗学研鑽のための就学を義務づけましたが、また各宗でも宗学を中心とする仏教研究が急速に発展し、住職となるために一定期間学林などで学ぶことを求めました。そして、学問の最高職として「能化職」が置かれました。「能化(のうげ)」の「能」は「能く(よく)」という意味で、「化」は教えるという意味です。

 しかし、「三業惑乱(さんごうわくらん)」事件が起き、この学林制度は廃止されます。三業惑乱は江戸時代中期に本願寺派の教義をめぐって発生した大規模な紛争です。宗派内で解決できず、最終的には幕府の寺社奉行が介入するまでに発展し、本願寺派門主寺社奉行の裁定を追認する形で決着しました。西本願寺教団史上最大の異安心事件です。

 本願寺派西本願寺)では、能化は教義と安心を取り仕切る最高責任者で、法主(ほっす)と同格の格式をもち、絶大な権力を持っていました。越前(福井県)ではずっと昔から、「十劫安心(じっこうあんじん)」という異安心が勢力をふるっていました。「十劫安心」は「無帰命安心(むきみょうあんじん)」とも呼ばれます。「安心」とは「信心」のことで、「無帰命」は阿弥陀仏に救われていない、ということです。「十劫安心」は「十劫の昔に、既に私たちは助かっているのだから、今さら求める必要はない」という信心のことです。救われてもいないのに、「私たちは既に救われている」、「救いは既に届いている」、「救われていることに気づいたのが信心だ」というようなことは、みな十劫安心を表しています。この間違いを正すため、二代目の能化知空の頃から帰命(仏に帰依すること)の一念(瞬間)が強調されていました。

 そして、本願寺は六代目の能化功存を越前(福井)へ派遣します。功存は阿弥陀仏をたのむ一念の体験が重要だと力説し、十劫安心を徹底的に非難しました。さらに、僧侶や門徒を集めて法話を開き、間違いを正しました。この時の法話が『願生帰命弁(がんしょうきみょうべん)』という本です。このように十劫安心を正したのですが、それによって、今度は逆の極端に振り子が振れていきます。

 1797年功存が病気で亡くなると、弟子の智洞が能化を継ぎました。智洞は能化に就任し、『大無量寿経』の講義をしているとき、全国から集まった学生に、「三業で阿弥陀仏をたのまなければ助からない」と教えたのです。「三業」は身業と口業と意業のことで、「身業」は身体でやること、「口業」は口で言うこと、「意業」は心で思うことです。「三業で阿弥陀仏をたのまなければ助からない」とは、心と口と身体でお願いしなければ助からないというものです。これを「三業安心」、「三業帰命」ともいいます。ところが、浄土真宗の教えは「信心正因(しんじんしょういん、浄土に生まれるには信じるだけでよい)」です。親鸞は「涅槃の真因は唯信心をもってす」(『教行信証信巻』)、つまり、浄土往生の因は信心だけである、と述べています。ですから、浄土真宗の基本に反する能化の講義に、誰もが疑問を持ちました。おかしいと感じた学生が智洞の講義録を持って地元の安芸(広島)へ帰り、それを見たのが大瀛(だいえい)で、彼は重い結核を患い、病床に伏していました。彼は重い病をおして講義録を読み、浄土真宗の危機だと感じたのです。大瀛は命がけで智洞の講義の不審をただす質問の手紙を書き上げ、本願寺へ送ります。「なぜ信心正因が間違いなのか」、「なぜ三業帰命でなければならないのか」が二つの質問でした。

*信心を確認するには三業のいずれかが不可欠で、信心とその確認の違いが論争になるのは解せないと考えるのがむしろ自然ではないのだろうか。

 ところが、本願寺からの回答に疑問を深めた大瀛は、さらに16の質問を送付しました(「十六問尋書」)。これに返答がないまま、1798年に開かれた蓮如上人300回忌法要で、智洞は法主に代わって三業帰命の話をし、全国の僧侶や門徒に動揺が走りました。こうして、「三業帰命」か「信心正因」かという二つの立場に分かれて、論争が始まりました。

 大瀛は智洞の主張を論破する『横超直道金剛錍(おうちょうじきどうこんごうへい)』を書きます。そして、それは1800年冬に出版されました。

 

ふるさとを穿る(7):三業惑乱(2)

 驚いた本願寺は即刻この書物を発禁処分にします。しかし、すでに700部が全国に送られた後でした。全国各地から多くの人が京都の本願寺へ詰めかけたのですが、法主の対応は不適切なもので、三業惑乱は論争から暴動へと変わっていきます。

 やがて、1802年美濃(岐阜)の大垣の門徒が京都へ押しかけようとして、それを止めた大垣藩本願寺へ回答を求めると共に、幕府へも事件の顛末を報告します。寺社奉行の脇坂安董(やすただ)は「直ちに騒動をおさめよ」と本願寺に警告し、困った本願寺は責任がすべて能化の智洞にあると幕府に返答します。怒ったのは智洞とそのグループで、1803年智洞は信者千人を集め、連日連夜本願寺へデモを繰り返します。その要求は、教義についての責任と権限を智洞に戻すこと、三業帰命を正しいと法主が認めることでした。このデモは暴力化し、法主は恐れおののき、ついに三業安心を正しいとする念書を書きます。この念書を宣伝し、智洞派は勢いを盛り返し、実権を握ります。

 大瀛側も、正しい浄土真宗の教えを護るため、安芸(広島)から京都の本願寺へ参集します。九州、中国四国、北陸などからも、信心正因を主張する人々が集まります。本願寺に騒動を鎮める力はなく、京都の所司代に訴えます。本願寺にこの争いを治める能力がないと判断した所司代は1804年70名以上の関係者を江戸に送ります。寺社奉行の脇坂安董は仏教に通じていました。脇坂は大瀛と智洞が到着すると、法論を命じます。大瀛は堂々と論陣をはり、寺社奉行も目を見張ります。親鸞が「涅槃の真因は唯信心をもってす」といわれた「唯」は、二つでも三つでもなく、ただ一つである、なぜ三業帰命が必要なのかと「唯」の意味を問いただし、智洞を撃破しました。その論争の後も、大瀛は寺社奉行に分かるように浄土真宗の他力信心を語り、口述筆記で安心書を作ります。それを寺社奉行に提出した直後、大瀛は危篤に陥り、この世を去ります。脇坂は三業帰命が異安心であるとし、暴力事件に及んだ智洞には流刑の判決を下し、投獄します。智洞は1805年獄死しました。こうして、1806年三業惑乱は終結します。

 徳川幕府はどの宗派にも一定の経済的利益と宗教的権威を与えることで、仏教界の不満を抑え、幕府に従わせました。仏教寺院を幕府の行政機関として活用することで、国民を個人単位、あるいは各戸単位で管理統括しました。これらの政策が三業惑乱の幕府による始末によく表れています。これはヨーロッパの宗教裁判と違っている点です。どの宗派も公平に扱い、裁定を下しています。政教分離ではないのですが、徳川幕府は各仏教宗派には公平だったのです。

 本願寺自体も閉門百日となります。やがて閉門が解け、開門した本願寺は、法主の本如の名で、『御裁断の御書』を発表します。この「三業帰命」と「信心正因」が対決した10年にわたる三業惑乱によって、「三業帰命」は退けられましたが、振り子がふれるように今度は帰命の一念にふれることを恐れるようになり、浄土真宗の肝要である「たのむ一念」にふれなくなってしまったのです。現在でも「十劫安心は間違いだ」と叩けば、三業安心にふれ、「三業安心は間違いだ」と叩けば、十劫安心にふれます。他力信心の振り子はなかなか止まってくれません。

 その後、1824年に「勧学寮」が作られて、「能化」の代わりに「勧学」が設けられます。既述の新井の正念寺の三葉勧学(興隆、僧朗、慧麟)は1830年代と想定できますから、本願寺派が三業惑乱から立ち直るための新組織がスタートした直後のことだとわかります。数名の勧学らによる勧学寮という門主の諮問機関である組織を設置し、それに勧学としてかかわったのが正念寺だった訳です。

 

ふるさとを穿る(8):知識帰命は異安心か、それとも安心か?

 浄土真宗では異端を「異安心(いあんじん)」と呼び、それについて既に何度も述べてきました。代表例に十劫安心(じっこうあんじん、阿弥陀仏が十劫の昔、本願をたてたときに、既に私たちは助かっている。だから、誰でも死んだら成仏できる)があります。

 そこで、私たちにわかりやすい「知識帰命の異安心」を考えてみましょう。まずは字句の意味確認。知識は指導者、帰命は帰依、誤った真宗教義は異安心(いあんじん)。よって、「知識帰命の異安心」は「阿弥陀仏にではなく、指導者に帰依する誤った教義」です。

 知識帰命の異安心は『歎異抄』にも述べられています。親鸞浄土真宗の開祖ですが、親鸞自身は「弟子一人ももたず候ふ(『歎異抄』第6章)」と、人々が彼に帰依することを否定しています。

 特定の指導者への帰依を過度に強調することは、浄土真宗に限らず、どの宗教も陥りやすい誤りです。仏教は釈迦への帰依を基本としますが、釈迦自身は「私の悟った法は、過去にも悟る者があったし、未来にも悟る者があるだろう」と語っています。釈迦は末期の説法で「自らを灯火として生きよ、法を灯火として活きよ」と弟子たちに言い残しています。

 科学者と科学理論を分けた場合、私たちが真理追求の際のターゲットは科学理論であり、それを生み出した科学者ではありません。物理現象を解明するとき、誰も物理学者の意識や思想を解明しようとはしない筈です。科学者の話やエピソードが話題になっても、それはあくまでその科学者が生み出した理論や技術を理解し、研究するための助けに過ぎないというのが公式の態度です。

 では、このようなきちんとした区別が思想や宗教にあるでしょうか。哲学も相当に怪しいもので、どうもその明確な区別がないところにむしろそれらの分野の特徴があるように思われます。これは正に、知識帰命の異安心です。デカルト、カントらの哲学はそれぞれ独自の内容をもち、彼らの哲学の研究はそのままデカルト哲学、カント哲学と呼ばれ、哲学理論と哲学者個人の考えが見事に重なっています。したがって、カントの哲学を研究することはカントを研究することとほぼ同じことになります。ですから、私が「哲学が専門だ」と言うと、必ずや「誰の哲学を研究しているか」と聞かれたもので、それが当然だというのが過去の常識でした。哲学がこの有様ですから、思想や宗教となれば、思想家や宗教家はその思想や教義と同一視されることになります。いや、そのような一体化こそが思想や宗教を科学知識とは違うものにしてきたのです。

 このように考えると、「知識帰命の異安心」が誤りで、宗教や哲学の中には知識帰名の安心と呼ぶ方が正しい場合があったことを示しています。一方、科学はその研究において、知識帰命が無意味である、あるいは誤りであることを実践的に示してきました。でも、その科学と区別するために思想や宗教が採用してきた方法は、思想家や宗教家と結びつけて思想や宗教を捉えてきた点に特徴があります。さらに、技術や技能、技やこつを考えると、知識帰命は異安心どころか、正しい説であることがわかります。音楽や絵画、陶芸やスポーツ等々、身体で憶えるための訓練が不可欠なものがたくさんあります。技術や技を習得するために、私たちは指導者の教えに従って学習、訓練します。これは科学研究でも実験技術の習得などで経験することです。仏教の修行でも先達は重要です。スポーツで勝つ、新記録を出すためには知識帰命が必要だということになっています。良き指導者を得ることによって優れた選手が育成されると考えられています。

 ですから、浄土真宗が「知識帰命の異安心」を頑なに主張することは自らの実践を否定することにつながる危険さえもっているのです。そのためか、親鸞の教えこそが大切なのだと信じることを黙認することが許されているのではないでしょうか。

 皮肉なことに、これまでの話から、何かを習得するには指導者が不可欠という点では科学、技術、宗教のいずれでもよく似ていることが再確認できたということになります。主張内容が主張者と無関係ではないにしても、二つは異なるものであり、それゆえ、二つは分けて扱われなければならないというのが常識であり、その意味で「知識帰命の異安心」は常識そのものなのです。むろん、主張内容を習得する、主張に関する歴史的研究となれば主張者は大変重要で、無視できません。とはいえ、主張の内容は主張者自身や歴史的経緯とは別のものです。

 

ふるさとを穿る(9):現在の異安心の一例

 ニーチェが「神は死んだ」と叫んだ遥か以前に、神仏を否定し、自ら解脱を目指したのがブッダです。私のような凡人には理解しがたい決断、行為で、禁煙やダイエットで四苦八苦する私たちには到底到達できない目標が解脱です。それは極めてストイックな自己管理と座禅による心理的な改造は、自己を信頼し、その自己を超越する歩みであり、超人による精神的コントロールの完成なのです。

 ブッダの仏教は私たちが馴染んでいる大乗仏教とは似ても似つかぬもの。禅宗の座禅や瞑想が僅かに重なりますが、その訓練の度合いは桁違いです。レースやゲームを実際に行う競技者とそれを楽しむ観客を比べたとき、ブッダの仏教は競技者が最後まで競技するためのノウハウ、手引きです。でも、その後の大乗仏教は競技者だけでなく、観客も含めての仏教です。大乗仏教の方便によれば、ブッダ、つまり釈迦(釈迦如来釈迦牟尼仏)と阿弥陀仏阿弥陀如来)は違う仏で、阿弥陀仏はすべての仏の師匠。一方、ブッダ阿弥陀仏の弟子です。阿弥陀仏の力は強力で、私たちの苦しみの根元である「無明の闇」を破ることができ、この力は「本願他力」、「他力本願」と言われます。自力のブッダに対し、他力の本願は様々な異安心を生み出し、論争を生み出してきたのですが、それが現代も続いています。

 これまで異安心の話を続けてきましたが、浄土真宗本願寺派は今も揺れています。2023年1月、室町時代につくられた聖典の現代版を大谷光淳(こうじゅん)門主が示したところ、全国の僧侶や門信徒から不満が続出したのです。『改悔文(がいけもん)』は蓮如真宗における信仰の在り方を示すために作成した文章で、本願寺派は『領解文(りょうげもん)』と呼びます。この文章は僧侶になるための「得度式」のほか、法要や説法を聞く法座の後などで暗唱されてきました。でも、室町時代の文章のため、現代では意味が伝わりにくく、多くの人たちに分かりやすく伝えるために、大谷門主が1月に示したのが「新しい『領解文』(浄土真宗のみ教え)」でした。

 領解文の精神は受け継ぎ、現代語で教えを解説する内容で、時代に合った言葉で伝えていくことが伝道教団の使命だと大谷門主は呼びかけました。総局が普及に向けて動き出すと、一部の僧侶らが「教義と異なる」とSNSなどで相次いで反対の意見を表明。

 さらに、本願寺派の最高位の「勧学」と、それに次ぐ司教計33人のうち、過半数となる計19人が文章の取り下げを求める「有志の会」に名を連ねました。代表を務める深川宣暢(のぶひろ)勧学は、5月下旬に京都市内で開いた記者会見で、自分の煩悩と仏のさとりを同一視する部分が特に問題で、「人間は死ぬまで煩悩の中にある存在というのが親鸞聖人の教えだ」などと指摘し、新しい領解文を総局の責任で早急に取り下げるよう求めたのです。

 「どうして生じた?領解文問題/オンライン講座」などで、詳しい内容を知ることができます(https://note.com/ryouge/n/n714b21ad113a?magazine_key=m44609759e0f8)。これ以外にも異安心の問題はまだまだ穿ることができ、教義に関する多くの未解決な問いが埋まっているのです。