ふるさとを穿る(7):三業惑乱(2)

 驚いた本願寺は即刻この書物を発禁処分にします。しかし、すでに700部が全国に送られた後でした。全国各地から多くの人が京都の本願寺へ詰めかけたのですが、法主の対応は不適切なもので、三業惑乱は論争から暴動へと変わっていきます。

 やがて、1802年美濃(岐阜)の大垣の門徒が京都へ押しかけようとして、それを止めた大垣藩本願寺へ回答を求めると共に、幕府へも事件の顛末を報告します。寺社奉行の脇坂安董(やすただ)は「直ちに騒動をおさめよ」と本願寺に警告し、困った本願寺は責任がすべて能化の智洞にあると幕府に返答します。怒ったのは智洞とそのグループで、1803年智洞は信者千人を集め、連日連夜本願寺へデモを繰り返します。その要求は、教義についての責任と権限を智洞に戻すこと、三業帰命を正しいと法主が認めることでした。このデモは暴力化し、法主は恐れおののき、ついに三業安心を正しいとする念書を書きます。この念書を宣伝し、智洞派は勢いを盛り返し、実権を握ります。

 大瀛側も、正しい浄土真宗の教えを護るため、安芸(広島)から京都の本願寺へ参集します。九州、中国四国、北陸などからも、信心正因を主張する人々が集まります。本願寺に騒動を鎮める力はなく、京都の所司代に訴えます。本願寺にこの争いを治める能力がないと判断した所司代は1804年70名以上の関係者を江戸に送ります。寺社奉行の脇坂安董は仏教に通じていました。脇坂は大瀛と智洞が到着すると、法論を命じます。大瀛は堂々と論陣をはり、寺社奉行も目を見張ります。親鸞が「涅槃の真因は唯信心をもってす」といわれた「唯」は、二つでも三つでもなく、ただ一つである、なぜ三業帰命が必要なのかと「唯」の意味を問いただし、智洞を撃破しました。その論争の後も、大瀛は寺社奉行に分かるように浄土真宗の他力信心を語り、口述筆記で安心書を作ります。それを寺社奉行に提出した直後、大瀛は危篤に陥り、この世を去ります。脇坂は三業帰命が異安心であるとし、暴力事件に及んだ智洞には流刑の判決を下し、投獄します。智洞は1805年獄死しました。こうして、1806年三業惑乱は終結します。

 徳川幕府はどの宗派にも一定の経済的利益と宗教的権威を与えることで、仏教界の不満を抑え、幕府に従わせました。仏教寺院を幕府の行政機関として活用することで、国民を個人単位、あるいは各戸単位で管理統括しました。これらの政策が三業惑乱の幕府による始末によく表れています。これはヨーロッパの宗教裁判と違っている点です。どの宗派も公平に扱い、裁定を下しています。政教分離ではないのですが、徳川幕府は各仏教宗派には公平だったのです。

 本願寺自体も閉門百日となります。やがて閉門が解け、開門した本願寺は、法主の本如の名で、『御裁断の御書』を発表します。この「三業帰命」と「信心正因」が対決した10年にわたる三業惑乱によって、「三業帰命」は退けられましたが、振り子がふれるように今度は帰命の一念にふれることを恐れるようになり、浄土真宗の肝要である「たのむ一念」にふれなくなってしまったのです。現在でも「十劫安心は間違いだ」と叩けば、三業安心にふれ、「三業安心は間違いだ」と叩けば、十劫安心にふれます。他力信心の振り子はなかなか止まってくれません。

 その後、1824年に「勧学寮」が作られて、「能化」の代わりに「勧学」が設けられます。既述の新井の正念寺の三葉勧学(興隆、僧朗、慧麟)は1830年代と想定できますから、本願寺派が三業惑乱から立ち直るための新組織がスタートした直後のことだとわかります。数名の勧学らによる勧学寮という門主の諮問機関である組織を設置し、それに勧学としてかかわったのが正念寺だった訳です。