ふるさとを穿る(8):知識帰命は異安心か、それとも安心か?

 浄土真宗では異端を「異安心(いあんじん)」と呼び、それについて既に何度も述べてきました。代表例に十劫安心(じっこうあんじん、阿弥陀仏が十劫の昔、本願をたてたときに、既に私たちは助かっている。だから、誰でも死んだら成仏できる)があります。

 そこで、私たちにわかりやすい「知識帰命の異安心」を考えてみましょう。まずは字句の意味確認。知識は指導者、帰命は帰依、誤った真宗教義は異安心(いあんじん)。よって、「知識帰命の異安心」は「阿弥陀仏にではなく、指導者に帰依する誤った教義」です。

 知識帰命の異安心は『歎異抄』にも述べられています。「歎異抄」というタイトルは真宗教義の異(誤り)を嘆くという意味。親鸞浄土真宗の開祖ですが、親鸞自身は「弟子一人ももたず候ふ(『歎異抄』第6章)」と、人々が彼に帰依することを否定しています。

 特定の指導者への帰依を過度に強調することは、浄土真宗に限らず、どの宗教も陥りやすい誤りです。仏教は釈迦への帰依を基本としますが、釈迦自身は、「私の悟った法は、過去にも悟る者があったし、未来にも悟る者があるだろう」と語っています。釈迦は末期の説法で「自らを灯火として生きよ、法を灯火として活きよ」と弟子たちに言い残しています。

 科学者と科学理論を分けた場合、私たちが真理追求の際のターゲットは科学理論であり、それを生み出した科学者ではありません。物理現象を解明するとき、誰も物理学者の意識や思想を解明しようとはしない筈です。科学者の話やエピソードが話題になっても、それはあくまでその科学者が生み出した理論や技術を理解し、研究するための助けに過ぎません。

 では、このようなきちんとした区別が思想や宗教にあるでしょうか。哲学も相当に怪しいもので、どうもその明確な区別がないところにむしろそれらの分野の特徴があるように思われます。これは正に、知識帰命の異安心です。デカルト、カントらの哲学はそれぞれ独自の内容をもち、彼らの哲学の研究はそのままデカルト哲学、カント哲学と呼ばれ、哲学理論と哲学者個人の考えが見事に重なっています。したがって、カントの哲学を研究することはカントを研究することとほぼ同じことになります。ですから、私が「哲学が専門だ」と言うと、必ずや「誰の哲学を研究しているか」と聞かれたもので、それが当然だというのが過去の常識でした。哲学がこの有様ですから、思想や宗教となれば、思想家や宗教家はその思想や教義と同一視されることになります。いや、そのような一体化こそが思想や宗教を科学知識とは違うものにしてきたのです。

 このように考えると、「知識帰命の異安心」が誤りで、宗教や哲学の中には知識帰名の安心と呼ぶ方が正しい場合があったことを示しています。一方、科学はその研究において、知識帰命が無意味である、あるいは誤りであることを実践的に示してきました。でも、その科学と区別するために思想や宗教が採用してきた方法は、思想家や宗教家と結びつけて思想や宗教を捉えてきた点に特徴があります。さらに、技術や技能、技やこつを考えると、知識帰命は異安心どころか、正しい説であることがわかります。音楽や絵画、陶芸やスポーツ等々、身体で憶えるための訓練が不可欠なものがたくさんあります。技術や技を習得するために、私たちは指導者の教えに従って学習、訓練します。これは科学研究でも実験技術の習得などで経験することです。仏教の修行でも先達は重要です。スポーツで勝つ、新記録を出すためには知識帰命が必要だということになっています。良き指導者を得ることによって優れた選手が育成されると考えられています。

 ですから、浄土真宗が「知識帰命の異安心」を頑なに主張することは自らの実践を否定することにつながる危険さえもっているのです。そのためか、親鸞の教えこそが大切なのだと信じることを黙認することが許されているのではないでしょうか。

 皮肉なことに、これまでの話から、何かを習得するには指導者が不可欠という点では科学、技術、宗教のいずれでもよく似ていることが再確認できたということになります。主張内容が主張者と無関係ではないにしても、二つは異なるものであり、それゆえ、二つは分けて扱われなければならないというのが常識であり、その意味で「知識帰命の異安心」は常識そのものなのです。むろん、主張内容を習得する、主張に関する歴史的研究となれば主張者は大変重要で、無視できません。とはいえ、主張の内容は主張者自身や歴史的経緯とは別のものです。