『歎異抄』と妙高の異安心事件

 「異端」となれば多くの人がガリレオの異端審問(1616、1633)を思い出すでしょう。当然、仏教にも異端があり、浄土真宗では異端を「異安心(いあんじん)」と呼んできました。その異安心の歴史を遡れば、浄土真宗の開祖である親鸞の教えに反する考えを嘆き、憂い、正す『歎異抄』に到達します。『歎異抄』は、鎌倉時代後期に書かれた仏教書で、作者は親鸞に師事した唯円とされています。書名は、親鸞滅後に浄土真宗の教団内に生じた異義・異端、つまり、異安心を嘆いたもので、『歎異鈔』とも書かれます。

その内容は、著者が「善鸞事件」の後に親鸞から直接聞いた話からなっています。建長8年(1256)、親鸞が実子である善鸞を破門したのがこの事件。事件から遡ること約20年の嘉禎2年(1236)頃、親鸞が東国から京に帰った後、東国では様々な異義が生じ、異端を説く者が現れ、東国門徒の間に動揺が広がります。そこで、親鸞は息子の善鸞を事態収拾のために派遣。善鸞は異端を説く者を説得しようとしますが、うまくいきません。そこで、自ら親鸞より真に往生する道を伝授されたと称し、自らの教えを説きました。善鸞が異端を説いていると知った親鸞は、秘事を伝授したことはないと東国門徒に伝え、善鸞に義絶状を送り、親子の縁を切り破門しました。その後、関東から上洛して親鸞に事を質したのが、唯円を含めた一行でした。親鸞の死後も、法然から親鸞へと伝えられた真宗の教え(専修念仏)とは違った教義を説く者が後を絶ちませんでした。唯円が『歎異抄』を著した時期は、親鸞没後30年の後(鎌倉時代後期、西暦1300年前後)と考えられています。この短い著作は以下のような構成になっています。

 

真名序

第一条から第十条まで - 親鸞の言葉

別序 - 第十一条以降の序文

第十一条から第十八条まで - 唯円の異義批判

後序

流罪にまつわる記録

 

真名序は、この文を書いた目的が記されています。その目的は「先師の口伝の真信に異なることを歎く」ことです。関東の教団は、善鸞の事件もあり、異義が起きやすい土地で、親鸞が亡くなることによって、それが一層加速しました。二つ異義を挙げてみましょう。

(1)悪を犯しても助かるのだから、悪を一切恐れない人は往生できないとする異義

(2)経典を学ばない人は弥陀の浄土へ往生できないとする異義

第一条 - 第十条

第一条から第十条は、親鸞が直接唯円に語ったとされる言葉が述べられます。第一条では弥陀の本願はただ信心が要であることが説かれ、唯円はこの言葉を、関東から上洛して善鸞事件について親鸞に質す僧侶の一人として聞いています。親鸞は彼らに対し、弥陀の本願念仏以外に往生極楽の道はないが、念仏を取捨選択するのは各々の自由であると答えています。第三条は、「悪人正機説」を説いたものとして、現在でもよく引用されます。第四条は、聖道仏教と浄土仏教の慈悲の違いが説かれています。また、念仏は阿弥陀によって為されるもので、そのため自分自身の弟子は一人もいないと説きます。他力不思議の念仏は言うことも説くことも想像すらもできないものであるため、「無義をもて義とする」ものであると、念仏が定義されます。

別序

親鸞の弟子から教えを聞き念仏する人々の中に、親鸞の仰せならざる異義が多くあると述べます。

第十一条 - 第十八条

第十一条以降は、異義を一つづつ取り上げ、異義である理由を逐一述べていきます。経典を読まず、学問もしない者は往生できないという人々は、阿弥陀仏の本願を無視する人だと断じます。また、どんな悪人でも助けるのが弥陀の本願といってわざと好んで悪を作ることは邪執だとした上で、悪は往生の障りではないことが説かれます。

後序

 親鸞法然から直接教えを受けていた頃、「善信が信心も、聖人の御信心もひとつなり」(自らの信心と法然の信心は一つである)と言い、それに対し他の門弟が異義を唱えました。それに対し法然は、「源空が信心も、如来よりたまわりたる信心なり。善信房の信心も如来よりたまわりたる信心なり。されば、ただひとつなり。」(阿弥陀仏からたまわる信心であるから、親鸞の信心と私の信心は同一である)と答えました。唯円は、上記のように法然在世中であっても異義が生まれ、誤った信心が後に伝わることを嘆き、本書を記したと述べています。

 

 さて、異安心は正統なものへの異議申し立てですが、何が正統で、何が異端かは実は判明でない場合がほとんどです。「あれか、これか」の二分法で正統と異端が区別できるかのように思いがちですが、実はそのような区別は夢に過ぎない場合がほとんどなのです。ガリレオの異端審問より30年ほど後に起きた異安心事件を次に考えてみましょう。親鸞が説いた「安心(あんじん)」と異安心の区別は厄介そのものなのです。

 

願生寺はかつて越後ではなく信濃国水内郡平出村にあり、平出の願生寺と呼ばれていました。願生寺の由来については、『日本名刹大事典』に「新潟県新井市(現妙高市)除戸。真宗大谷派、大高山。本尊は阿弥陀如来。開山は親鸞。開基は尊願坊。寺伝によれば、開基尊願坊は建久6年(1195)法然の教化を受けて仏門に入ったが、のち健保2年(1214)親鸞に帰依して下総国下河辺庄に一宇を建立。のち応仁2年(1468)信濃国水内郡平出村に移り、九世英賢の天正年間(1571-1591)上杉氏に招かれて新井に移転した。」と記されています。つまり、願生寺のルーツは下総国(千葉県)で、15世紀に信州の平出村に移転します。そして、第9世英賢の時に越後の新井に移転し、新井では願生寺と呼ばれました。実は、北信州から越後上越地方にかけての有力な真宗寺院は、願生寺と同じく関東に起源をもつ大寺院が数多く存在しています。彼らは磯辺門流と呼ばれ、初期真宗門徒の有力な集団でした。

越後と北信濃触頭寺院(ふれがしらじいん、寺社奉行に任命された特定の寺院で、地域内の寺院の統制を行なう)として絶大な教勢を誇っていた新井(現妙高市)の願生寺と親鸞聖人の居多ケ浜上陸以来のゆかりの有力寺院だった高田(現上越市)の浄興寺との間に教義論争が巻き起こります。それは十五世英誓の時で、いわゆる異安心事件です。新井願生寺方と高田浄興寺方に分かれ、多くの末寺門徒と本山東本願寺を巻き込んで大論争に発展し、その裁定に寺社奉行が乗り出すまでになりました。真宗では教義の解釈、受取り方の違いを「異安心」と言います。つまり、異義、異端のことです。では、どんな異義が論争になったのでしょうか。それは「小児(15歳以下の者)は往生して仏になれるか、なれないか。」という問題です。この問題を巡って「小児は往生できる」という浄興寺方と「小児は往生できない」という願生寺方との主張が対立したのです。

あくまでも強硬な願生寺方に困り果て、浄興寺方は本山に訴え出ます。双方が本山に呼び出され、吟味され、その結末は願生寺方の敗北でした。首謀者は追放、願生寺は取り潰しと決まったのです。しかし、願生寺は本山の一方的な処分に納得せず、翌年、江戸の寺社奉行に上訴するのです。そこで、大詮議が始まります。詮議の結果はまたも願生寺方の負けで、本山に逆らった不届き者という裁定が下りました。信心のあり方、教義の解釈の問題は不透明で真偽の決着がつかないまま、願生寺側の訴えは却下されました。浄土真宗では、古来より小児往生論が議論されてきました。これは「ものの分別もつかない幼児が浄土へ往生することができるのかどうか」についての論争です。 寛文年間(1661‐1673)にその記録があり、当時の学匠の意見は『往生可能説』と『往生不可能説』に二分されていたようです。この論争の中、第四代能化(本願寺派宗学を統率する職)法霖(1693‐1741)は、「小児の往生は不定と知るべし。不定とは往生ならぬということにあらず。なるともならぬとも凡見にては定められぬという事なり」と述べて、判断を中止しています。

 異安心論争の裁定を取り持った東本願寺は貞享二年(1685)敗れた英誓を追放し、その後を新井道場としました。元禄元年(1688)東本願寺十六世一如上人が荒井掛所と改称し、以後教化統制に力を入れ、高田別院や稲田別院(光明寺)などの支院や願楽寺、聞称寺、照光寺などの寺院を合わせて60を越える寺をまとめる中心道場となり、明治9年(1876)に新井別院と名前を改めました。