願生寺と浄興寺の論争

 願生寺(がんしょうじ)は善性が創建した下総国の磯部勝願寺(茨城県古河市)の流れを受け継ぎ、信越地方に建てられた六つの寺院(磯部六寺)の一つで、現在は新潟県妙高市除戸にある真宗大谷派の寺院で、通称は平出願生寺です。天正年間、上杉家の招きで越後国新井に移転、蒲原郡や頸城郡に多くの末寺を持っていました。貞享年間、親鸞が創建した上越市の浄興寺(じょうこうじ、茨城県笠間市の稲田草庵から始まる)との間で既述の「小児往生」に関する宗義論争が起こり、1685(貞享2)年、願生寺の栄誓は「異安心」として追放されます。その跡地には真宗大谷派新井別院が建てられました。追放された一族は後に越後帰還が許され、1759(宝暦9)年現在地に復興し、1950(昭和25)年、「願生寺」の名前も復活しました。

 異安心は正統なものへの異議申し立てですが、何が正統で、何が異端かははっきりしていない場合がほとんどです。「あれか、これか」の二分法で正統と異端が区別できるかのように思いがちですが、実はそのような区別は夢に過ぎないのです。ガリレオの異端審問より30年ほど後に起きた越後の異安心事件を見てみましょう。親鸞が説いた「安心(あんじん)」と異安心の区別は厄介そのもので、さらにそこに教団維持の対立が加わっていたのです。

 越後と北信濃触頭寺院(ふれがしらじいん、寺社奉行に任命された特定の寺院で、地域内の寺院の統制を行なう)として絶大な教勢を誇っていた新井(現妙高市)の願生寺と親鸞聖人の居多ケ浜上陸以来の名門有力寺院だった高田(現上越市)の浄興寺との間に教義論争が巻き起こります。それは十五世英誓の時で、いわゆる異安心事件です。新井願生寺方と高田浄興寺方に分かれ、多くの末寺門徒と本山東本願寺を巻き込んで大論争に発展し、その裁定に寺社奉行が乗り出すまでになりました。では、どんな異義が論争になったのでしょうか。論争は三点で、その一つが「子ども往生きるか否か」でした。「親が御文をいただかせ、後生助け候へ」と頼めば、小児でも往生できるとする浄興寺に対し、願生寺は心底より疑いなく頼み奉るものを仏陀は助けるのであって、信心のないものが助かることはないと主張しました。アカデミックな議論だけによって異安心問題が決着したためしはありません。普通、異端の主張は体制派によって平定され、収束します。

 あくまでも強硬な願生寺方に困り果て、浄興寺方は本山に訴え出ます。双方が本山に呼び出され、吟味され、その結果は願生寺方の敗北で、願生寺は取り潰しと決まったのです。この厳しい裁決はキリスト教の異端審問の結果によく似ています。しかし、願生寺は本山の一方的な処分に納得せず、翌年、江戸の寺社奉行に上訴します。そこで、大詮議が再び始まります。詮議の結果はまたも願生寺方の負けで、本山に逆らった不届き者という裁定が下りました。信心のあり方、教義の解釈の問題は不透明で真偽の決着がつかないまま、願生寺側の訴えは却下されました。

 浄土真宗では、古来より小児往生論が議論されてきました。これは「ものの分別もつかない小児が浄土へ往生することができるのかどうか」についての論争です。 寛文年間(1661‐1673)にその記録があり、当時の学匠の意見は『往生可能説』と『往生不可能説』に二分されていたようです。この論争の中、第四代能化(本願寺派宗学を統率する職)法霖(1693‐1741)は、「小児の往生は不定と知るべし。不定とは往生ならぬということにあらず。なるともならぬとも凡見にては定められぬという事なり」と述べて、判断を中止しています。結局、大論争は泰山鳴動して何も得るものがなかったのです。ヨーロッパの異端審問が脱中世を促したのに対し、願正寺と浄興寺の間の異安心論争は真宗教団の運営以外の点で何を結果したのか、よくわかりません。でも、確実に言えるのは、ガリレオ天文学や物理学についての主張より、真宗の小児往生の疑義の方がより微妙な問題だということです。

*『越後の願生寺安心事件 : 清傳寺文書群』、真宗佛光寺派新潟教区『清傳寺文書』編集委員会編 前嶋敏監修2020.5(この著作は未読)