我が故郷での親鸞と謙信(2)

(2)親鸞

 平安時代末期の1173(承安3)年、京都の日野有範(ありのり)の長子として誕生したのが親鸞。4歳で父、8歳で母と死別した後、1181(養和元)年、9歳で出家し、29歳までの20年間、比叡山で堂僧として修学の日々過ごします。1201(建仁元)年、親鸞29歳のとき、比叡山を下り、浄土宗の開祖法然を訪ね、弟子入りします。1207(承元元)年、法然の専修念仏は説くことを禁止され、師の法然は四国へ、35歳の親鸞は越後へと配流が決まります(承元の法難)。

法然親鸞などによる念仏宗が国家体制を揺るがしかねないとして、朝廷及び朝廷と結びつきの強い旧仏教教団による念仏宗の弾圧が承元の法難と考えられていますが、実際はどうだったのでしょうか。1206年12月、後鳥羽上皇の熊野詣の折、法然門下の住蓮と安楽が東山鹿ケ谷で催した念仏集会へ宮中の女官数名が密かに参加し、数名の女官が感銘を受け、そのまま出家、帰京しこの事を知った後鳥羽上皇が激怒し住蓮と安楽を逮捕した、とされます。上記の事件をきっかけに後鳥羽上皇は主催の4人を死罪、関係未詳の親鸞を含む7人と師の法然の計8名を流刑とします。承元の法難は新旧仏教の対立なのか、あるいは女官のスキャンダルなのか?

 京都を追放された親鸞北陸道を下り、船で旧能生町(現在の糸魚川市)から上越市直江津の居多ケ浜(こたがはま)に上陸。約1年を五智国分寺の竹之内草庵で過ごし、次に移り住んだのが竹ケ前(たけがはな)草庵。僧籍を取り上げられ、俗人の藤井善信(よしざね)として追放されたのですが、この配流を機に愚禿親鸞(ぐとくしんらん)と名乗ることになりました。1211(建暦元)年、法然とともに赦免となった親鸞はすぐに京都に戻ることができず、その2年後に師の法然が亡くなり、もはや再会はかなわないと知り、そのまま越後に留まります。1214(建保2)年、42歳の親鸞は関東での布教活動のため恵信尼(えしんに)、家族、門弟たちとともに越後を離れ、善光寺などを経て常陸の国(茨城県の南西部を除いた地域)へ向かいます。善光寺を経て常陸に入った親鸞は、以後20年間を精力的に布教に努め、『教行信証』の執筆をスタートさせます。60歳を過ぎ、妻子を伴い京都に帰り、『教行信証』を完成させます。恵信尼親鸞が90歳で亡くなる数年前に末娘の覚信尼(かくしんに)に親鸞の世話を任せ、郷里の板倉(現上越市板倉区)に帰っています。

 1217(建保5)年、常陸国笠間郡(現笠間市)に親鸞は稲田の草庵を開いています(稲田御坊、現西念寺)。1232(貞永1)年8月、草庵を去るにあたり、親鸞は善性を後継とすると共に「掟二十一ケ条」を定めて授けます(『高田市史』)。1235(嘉禎1)年、将軍藤原頼経信濃国長沼に3000貫を寄進(『高田市史』)。1263(弘長3)年、善性は遺言で親鸞の頂骨を持ち帰って納めています。1267(文永4)年、寺領のあった信濃国水内郡長沼(長野県長野市長沼)に移転(長沼浄興寺)。

**親鸞は1214(建保2)年に常陸国稲田の領主であった稲田九郎頼重の招きに応じて草庵を結び、現在その跡地には西念寺浄土真宗の単立別格本山で、1304年開基)があります。一方、上越には浄興寺があり、昭和27年に大谷派から独立し、やはり単立別格本山です。浄興寺の名は浄土真宗興行寺のことで、稲田草庵の直接の伝統を引いていると寺伝は述べています。1263(弘長3)年、小田泰知の乱により伽藍を焼失。常陸板敷山(現在の茨城県石岡市大覚寺に移り、その2年後、火災により再び焼失し、常陸磯辺村(現在の茨城県常陸太田市)に移りました。さらに、2年後(1267年)には信濃長沼(現在の長野県長野市)に移っています。こうして、1263年に浄興寺が稲田から移転した後、1304年に跡地に西念寺ができたということになるのですが、西念寺と浄興寺の関係はよくわかりません。いずれの説明にも相手側の記述がないのです。

 1561(永禄4)年、川中島の戦いで焼失。13世住職周円は焼死し、寺は小市村(現在の長野市安茂里)に避難します。領主となった上杉謙信の庇護により信濃別府(現在の長野県須坂市)で再建。1567(永禄10)年に上杉謙信の招きにより越後春日山(現在の新潟県上越市)に移ります(同地への招聘は上杉景勝によるものとする説があります)。

 高田寺町には現在64の寺院があります。内訳は、浄土真宗36、曹洞宗10、浄土宗6、真言宗4、日蓮宗7、時宗1となっていて、意外に多様です(これは寺町のみの数です)。一方、現在の妙高市の寺院数は71。その内訳は、単立1、曹洞宗1、真宗大谷派(東)45、浄土真宗本願寺派(西)22、真言宗醍醐派修験道)1、天台寺門宗1です。すぐに気づくように、寺院の94%以上が浄土真宗。越前、越中のようにかつて激しい一揆があったとも伝わっていませんし、新井別院の前にあった願生寺が異安心事件でつぶされたことくらいがせいぜいの事件で、それさえ知らない市民がほとんどです。でも、統計資料によれば、妙高市の寺院の9割以上が浄土真宗です。この数値は新潟県でトップだけでなく、真宗のホームグラウンドと言われる福井、石川、富山の3県の割合(多くて8割強)を大きく離して断トツです。妙高市真宗寡占状態で、これが少なくても江戸時代から変わっていないのです。

***浄興寺は親鸞ゆかりの名刹で、もともとは常陸の国にあったが、信濃の国を経て上杉謙信の招きにより、この地へ移転してきた寺だと『高田市史』などでは説明されています。謙信は子供の頃より信心深く、真言宗の僧でもあった彼がなぜ浄土真宗の浄興寺を助けたのか私にはよくわかりません。彼は越中一向一揆と戦っていました。真言宗曹洞宗への庇護は納得できるのですが、どうして浄土真宗の寺を助けたのか、私にはわからないのです。

****上記の*、**、***の三つの疑問は私だけの疑問で、既に解答があるのかも知れません。