江戸時代後半の米沢藩と高田藩

 江戸時代の前半の越後高田は藩主が次々と変わり、直轄統治もなされ、安定しなかった。一方、米沢藩上杉家も外様大名として石高を減らされ、苦境に追いやられていた。そこに登場し、藩の窮状を救ったのが米沢では上杉鷹山(1751‐1822)、高田では榊原政令(まさのり、1776‐1861)だった。

 米沢藩は幕府から領土を減らされ、藩の財政は厳しく村人の生活も困窮していた。上杉鷹山は17才で藩主となり、この厳しい藩の財政を立て直し、人々が豊かになるために様々な事業に取り組んだ。財政を豊かにするために、新田を作り、そこに水を引くための水路やため池をたくさん作った。藩と村人が一体となった一大土木事業として「黒井堰(くろいぜき)」と「穴堰(あなぜき)」という水路を作り、米沢盆地北部の水不足を解消し、現在の農業の基礎となっている。また、新しい産業を起こし、教育にも取り組み、72才で亡くなる頃は、藩の借金をほとんど返し、農村の復興を果たした。アメリカの元大統領ケネディは最も尊敬する日本人として上杉鷹山の名前を挙げた。

 細井平洲(ほそいへいしゅう)はその鷹山の師である。平洲は人にとって最も大切なことは「譲る」、「相手を思いやる」ことであり、反対に「思い上がり」、「相手のことを考えない自分中心の行い(利己主義)」が最も人の道にはずれたことだと説く。平洲は藩校を設立する際、校名を「興譲館」と名付けた。興譲とは「譲を興す」と読み、人を人として敬い、譲り合う生き方で、それを徹底すれば争いのない地域社会ができ、そのことによって国が栄えるという利他主義を説いた。

 上越市では今でも上杉謙信は地元の大英雄であり、比類なき人物ということになっている。江戸後半の榊原家の政治は堅実で、高田藩は豊かな藩に生まれ変わっていく。もっと榊原家は重視されてしかるべきなのだが、謙信に比べると、軽視されてきたように思われる。そこで、戦時の英雄謙信に対し、平時の名君政令(まさのり)を見直してみよう。

 榊原家は徳川四天王の一人榊原康政に始まり、徳川譜代の家臣の中でも筆頭格。榊原政令は1776(安永5)年に生まれ、1810(文化7)年35歳で家督を継ぐ。藩政に尽くし、藩士への産綬事業推奨、領内赤倉山の温泉を掘削し、赤倉温泉を開き、藩士に果樹の木の植樹を推進するなど、多方面にわたる改革や産業の育成を行い、藩財政を立て直した。また、陸奥国の飛び地分9万石余のうち5万石余を高田城隣接地に付け替えられるという幸運もあり、藩財政は安定した。

 政令は思い切った人材登用、倹約令の発布、新田開発、用水の開鑿、内職の奨励、牧場の経営、温泉開発まで行い、倹約令なども徹底していて、食事はどんな場合も一汁一菜だった。また、「武士がそろばんをはじいて何が悪い」と藩士たちにも盛んに内職を勧め、それまでは隠れて内職をしていた下級藩士たちは、堂々と内職をするようになる。数年後には藩士たちの作った曲物、竹籠、凧、盆提灯などが高田の特産品となり、信州や関東にまで売り出された(『武士の家計簿加賀藩御算用者」の幕末維新』(磯田道史、2003、新潮新書)を遥かに超えている)。

 さて、赤倉温泉は1816年に開かれました。地元の庄屋が地獄谷の温泉を麓に引いて湯治場を作りたいと高田藩に願い出る。高田藩の事業として開発が始められ、温泉奉行を置く藩営温泉となった。第3セクターによる公営事業の始まりである。妙高山を領地としていた関山神社の別当宝蔵院に温泉買い入れ金800両、関温泉への迷惑料300両を支払って開発が始まる。2年間の開発経費3120両、温泉宿などの建設経費2161両で、当時としては大開発事業だった。

 政令財政再建によって高田藩は安定し、天明天保の飢饉の際には一人の餓死者も出さなかった。さらに、兵法に洋式を取り入れて大砲を鋳造し、ペリー来航の際、その大砲を幕府に寄進している。

上越市大手町にある榊神社には「榊原康政・3代忠次・11代政令・14代政敬」が顕彰され、まつられている。高田藩について詳しく知りたい人は「公益財団法人旧高田藩和親会」で検索してほしい。また、米沢には上杉神社春日山林泉寺、上杉記念館などがあるので、これらもそれぞれ検索してみよう。