謙信と、鷹山や政令

 上杉謙信は戦いの天才で、その作戦は閃きに満ちていました。北条氏を追い詰めた永禄3~4年(1560~61年)の小田原攻めが成功していたら、彼は関東を支配していたでしょう。戦では天賦の才を発揮した謙信ですが、強いて彼に欠けていたものを探すなら、家臣や共に戦う武将と話し合い、説得する能力ではないでしょうか。コミュニケーション能力に問題があった理由は謙信の生い立ちにあったと思われます。実父の長尾為景は内輪揉めを防ぐために、謙信を寺に預けたのです。寺に入った謙信が学んだのは禅や教養で、これは政治やビジネスの交渉の世界とは違い、知識、思想、そして宗教の世界であり、修行の生活でした。彼の精神生活は現実の生活世界とは随分違っていた筈です。

 上越で有名な謙信の「第一義」は禅の公案の一つとして、達磨と梁の武帝の問答中に登場します。中国に禅を伝えた達磨が武帝と問答し、仏教に帰依する武帝が「如何なるか聖諦(しょうたい)の第一義(仏教最高の真理は何か)」と尋ね、達磨は「廓然無聖(かくねんむしょう)(カラリとして聖なるものなし)」と応じ、そう答えるのは誰かと問う武帝に、達磨は「不識(ふしき)(知らない)」と答えるのです(『碧巌録』第一則)。

 謙信は14歳の若さで元服し、長尾景虎を名乗ります。元服した翌年には、謀反を起こした豪族を相手に、初陣を鮮やかな勝利で飾っています。その後も数々の戦いで活躍し、19歳で家督を相続して守護代になり、20歳のときには越後の国主としての地位を確立します。自らを毘沙門天の化身と思い、戦いに一生を捧げ、特に武田信玄との何度もの激闘は有名です。酒豪で、敵に塩を送る義の(義理堅い)人でした。4年先輩の織田信長と謙信は共に48歳で亡くなっています。

 その謙信が藩政についてどのような才能をもっていたかは全くの未知数でわかりません。とても思弁的で、宗教的直観に優れていた彼が政治家として巧みに藩を運営できたのか、私には想像しにくいのです。そこで、謙信の遺産である米沢藩上杉鷹山高田藩榊原政令の藩運営を比較してみよう。戦時の謙信に対して、平時の鷹山、政令とを較べてみようという訳です。

上杉鷹山(1751-1822)

 会津120万石から米沢30万石に減らされ、さらに三代綱勝が急死したことで、米沢藩は15万石に減封されます。これで藩財政は逼迫し、名門意識の強い家臣団は状況に対応できず、財政悪化は年を追ってひどくなっていきました。ついには八代藩主重定は幕府に返納を決意するほどでした。
 そのような中、高鍋藩から養子に迎えられ17歳で藩主となった治憲(鷹山)は、強い意志と若い武士や農民に語りかけ、改革を実行していきます。大倹の断行を誓い、自ら一汁一菜を実行し改革に着手しました。武士といえども時には刀を鍬に替えて国を養うことを説き自ら実践しました。農民の援助・殖産興業・開拓・水利事業など勤勉倹約を旨とする民政の安定と経済の復興を図り、生涯藩政の再建に心を砕き続けた名君でした。

 「伝国の辞」は上杉鷹山が治広に家督を譲る際に、君主の心得として与えたもので、その内容は民主主義そのものであり、ケネディが大統領就任の際に、尊敬し目標とする政治信条として上杉鷹山に言及したことで一躍世界の注目を集めました。

榊原政令(1776-1861)

 榊原政令(まさのり)は1776(安永5)年に二代目政敦の長子として生まれ、1810(文化7)年35歳で家督を継ぎました。藩士への産綬事業推奨、領内赤倉山の温泉を掘削し赤倉温泉を開き、藩士に果樹の木の植樹を推進するなど多方面にわたる改革や産業の育成を行い、藩財政を立て直しました。また、陸奥国の飛び地分9万石余のうち5万石余を高田城隣接地に付け替えられるという幸運もあり、藩財政は安定します。
 政令は思い切った人材登用、倹約令の発布、新田開発、用水の開鑿、内職の奨励、牧場の経営、温泉開発まで行いました。例えば、倹約令なども徹底しており、食事はどんな場合も一汁一菜。また、「武士がそろばんをはじいて何が悪い」と盛んに内職を勧め、それまでは隠れて内職をしていた下級藩士たちは、堂々と内職をするようになります。数年後には藩士たちの作った曲物、竹籠、凧、盆提灯などが高田の特産品となり、信州や関東まで売り出されました。
赤倉温泉は1816年に開かれますが、地元の庄屋が地獄谷の温泉を麓に引いて湯治場を作りたいと高田藩に願い出たのが始まりです。高田藩の事業として開発がスタートし、温泉奉行を置く藩営温泉となりました。これは第3セクターの公営事業です。妙高山を領地としていた関山神社の別当宝蔵院に温泉買い入れ金800両、関温泉への迷惑料300両を支払って開発が始まります。2年間の開発経費3120両、温泉宿などの建設経費2161両で、当時としては大開発事業でした。