上杉謙信と米沢藩上杉家

 儒教の「義」は、私欲にとらわれず、行うべきことを実行することを意味していて、利による行動と対比されます。つまり、私利私欲で行動するのではなく、正義のために行動することです。

 米沢藩上杉家の祖である謙信は越後守護代長尾為景の二男として生まれ、19歳で家督を継ぎ、23歳で関東管領上杉憲政から関東管領と上杉姓を譲り受けました。謙信は尊王意識が高く、朝廷や足利幕府のために活躍しましたが、1578年49歳で急死しました。御館の乱が起こり、あとを継いだのが上杉景勝です。景勝は豊臣秀吉の信任を受け、五大老の一人となりました。1598年慶長秀吉によって越後春日山から会津120万石へ転封となり、その後徳川家康に敵対し、関ヶ原合戦後の1601年米沢30万石に減封されてしまいます。上杉家は転封の際、謙信の遺骸だけでなく、家臣もすべて連れていく徹底ぶりで、そのため、越後春日山会津にはほぼ何も残っていません。

 1664年四代藩主綱勝が世継ぎのないまま急死、断絶の危機を迎えました。吉良義央の長子綱憲が跡継ぎと決まったのですが、15万石に減封されます。今の言葉を使えば、江戸幕府外様大名へのイジメの典型例と言えます。その結果、上杉家は会津120万石の八分の一になり、当然ながら藩財政は破綻寸前の状況になりました。それでも米沢藩は家臣を減らさず、リストラしませんでした。米沢藩の財政改革を成し遂げたのが上杉鷹山(治憲)です。彼は質素倹約、学問の奨励、殖産興業に率先して取り組み、藩復興に当たりました。また、彼は細井平洲を招き、藩校「興譲館」の創設に尽力しました。

 謙信の義は正義ですが、家臣のリストラをせず、終身雇用を守った上杉藩の義は義理です。生活世界での義は江戸時代に入り、正義から義理に転化しています。家臣を思いやるという生活上の義を実現しようとした上杉藩の環境は、戦いの中での義を実現しようとした越後の謙信の時代とは随分と違っています。

 謙信は「義の人」と呼ばれ、「第一義」という扁額を春日山林泉寺山門に残したのですが、両方に登場する「義」は漢字が同じという程度のものでしかありません(「第一義」は基本原理、根本原理のことで、林泉寺は米沢と春日山の両方にあります。)。行動規範、倫理としての「義」も謙信とその後の米沢藩では違っています。歴史の中で義の意味は変化し、多義的になっていったのです。越後に生まれた「義の人謙信」を敬う越後の人々の「義」は正義でいいのでしょうが、米沢の人々の「義」は家臣のために終身雇用を守った義理堅い振舞いを指していることになります。

*英語を知っている人には、「Justice」と「Duty」の違いが謙信の義と上杉家の義の違いだと考えていいかも知れません。また、興譲館の「興譲」は「人に譲る」という利他的な倫理を表しています。