細井平洲は期待される武士を教育する学問所を提唱したが、武家の学問所は総じてこのような構想に基づいて作られた。昌平坂学問所が整備されると、そこで育った学者が大名家に採用され、知識の均一化が進むことになる。
武士が学問することが常識となり、やがては開国の実務を担うことになる人材を準備することになる。昌平校の書生寮には、諸大名家から抜擢された若者が集い、同様に各藩の学問所においても、武士たちが交流することになり、社会の中で儒学の存在感が増していった。やがて洋学が「実学」として脚光を浴び始めるが、やはり「学政一致」観が支配していた。この点を批判して、学者、学問の独立を主張したのが福澤諭吉である。だが、明治政府は「国家の須要に応ずる学術技芸」を政府主導で育てる姿勢を保持する。
まずは米沢藩の藩校「興譲館」を見てみよう。明和4(1771 )年、鷹山が「学問所」を再興し、細井平洲を招聘する。安永5(1776)年に学館が完成し、細井平洲が藩校を「興譲館」と命名する。その後、平洲は講義のために何度も米沢を訪れる。寛政5(1793)年には医学堂「好生堂」がつくられ、薬草園、医学書、オランダ製の外科器具類が整備される。
鷹山は西洋医学の合理性に着目し、藩医たちに蘭学・医学の研修を推奨した結果、米沢が「東北の長崎」の異名を取るほどに蘭学が振興し、やがて明治に入ると全国の諸藩に先駆けて外国人教師を雇用して、英学教育に先鞭をつけた。鷹山の産業改革は細井平洲によって伝授された儒教の教えである「民に愛を施す」ための「壮大な実践」だった。
寛政元(1789)年杉田玄白の弟子大槻玄沢が蘭学塾「芝蘭堂」を開設すると、その最初の塾生として2名入塾させるが、これが米沢藩の蘭学事始めである。寛政4(1792)年本草学者佐藤平三郎を招聘し、藩内の医師に薬草栽培や製薬法を習わせる。寛政6(1794)年鷹山の実子、治広の世子顕孝が疱瘡のため江戸で亡くなる。そして、翌年には領内に疱瘡が大流行した。江戸から痘瘡医津江柏寿が招かれ医療指導に当たるが、このときも伊東昇迪や山口吉信、樫村清応ら西洋医学に関心の深い医師たちが津江に師事している。寛政8(1796)年には、飯田正倫が桂川甫周に、高橋玄勝が杉田玄白に、それぞれ入門して蘭方を学び、 西洋医学への関心が高まっていく。
では、高田藩はどうか。第13代榊原政愛(まさちか)は、文武奨励に意を用い藩校設立の志を持っていたが、それを果たせずに逝去。次の藩主政敬(まさたか)は再度の上洛、長州出兵などで時代の激しい流れや学術の進歩を目の当たりにして、改めて人材育成と教育の重要性を認識した。高田藩兵は芸州小瀬川で敗れ、さらに7~8月にも長州兵と戦闘、9 月に休戦、10月帰国する。慶応2年(1866)11月、政敬は藩校の開設に踏み切った。当初の計画では、学舎を対面所(榊原神社)とし、領内に数カ所の小学校を設けるというものであった。これが「修道館」の始まりとなる。
明治に入り、大監察柴田一郎、監察庄田直道を藩校設立掛に任命し、藩校の充実に取りかかった。校舎は対面所から領奉行(大手町小学校)に移すとともに学舎一棟を増設した。修道館の学生は藩士やその子弟のみでなく、一般庶民にも門戸が開かれた。だが、修業年限は3カ年で春と秋の試験において3回落第すると退学しなければならないという厳しいものだった。学習内容は、午前は城内の演武場で銃隊訓練、午後は修道館で和漢、洋学、書道を学んだ。明治5年(1872)、学制が発布されると修道館の校舎や資産は小学校と洋学校に譲り渡されたが、これらは、現在の大手町小学校および高田高等学校へと引き継がれていく。
*「榊原家文書」は、寛保元年(1741)から明治 4(1871)年まで高田藩主だった榊原家の藩政史料と、その家臣数家の史料を中心に編成された史料群。榊原家の史料は現在、榊原家と榊神社、上越市立高田図書館ので所蔵している。高田図書館蔵の「榊原家文書」は図書館の歴史と深い関わりをもっている。高田図書館は明治41(1908)年6 月、「県社榊神社三百年祭記念立高田図書館」として、旧高田藩士によって設立された。その目的は藩校「修道館」の蔵書を広く公開するためだった。発起人は高田藩中老を務めた清水広博(ひろあつ)で、開館後は図書館主事を務めた。榊神社による私営図書館としてスタートした高田図書館は明治 44(1911) 年に高田町営となる。
*町泉寿郎、小曽戸洋、天野陽介、花輪壽彦「医家合田家の歴史と蔵書」『日本医史学雑誌第五十一巻第四号平成十七年、527-548 蔵書は全138点、450冊高田藩の藩医となった合田家の蔵書とその解題で、明治以降にも合田家は陸軍医務局長、北里大学衛生学部長などを輩出。