米沢藩と高田藩を較べる

 林泉寺は明応5(1496)年に建立された曹洞宗の寺。長尾景虎上杉謙信)の祖父能景が亡父重景の菩提を弔うため建立し、寺名は重景の法名林泉寺院殿からとったもの。景虎は7歳で林泉寺天室光育(七世)に預けられ、長じて八世益翁宗謙の下に参禅し、「達磨不識(だるまふしき)」の境地を悟り、不識庵謙信を号するようになった。
 その後、謙信を継いだ上杉景勝は慶長3(1598)年に越後から会津120万石に移封となり、同6年には米沢30万石に削封(その後さらに削られ15万石)、謙信が天正6(1578)年、春日山城で急死した際、遺骸は城内の不識庵に仏式で祭られたが、米沢へ移封されたのに合わせ、謙信の祠堂も遷された。この辺の事情を少し探ってみよう。

 家康と伊達政宗に対して直江兼続が執政の上杉家を対峙させることは、秀吉には有利なことだったが、景勝にはメリットがなかった。一方、この上杉の会津移封や、蒲生の宇都宮移封を仕切ったのが石田三成。秀吉が「兼続に米沢30万石を与えよ」と景勝に直々に告げたとされることなどから、三成と兼続が共謀して、蒲生氏郷を毒殺して会津を取ったとも言われている。

 景勝の次に越後にやって来た堀秀治(ひではる)は旧領の北ノ庄(福井市)で当年の年貢の下半期分を次の領主へ引き渡してきた。このような引継ぎが当時の通例。そこで堀秀治は同じように下半期分を景勝に要求したが、上杉家はそれを拒む。前任の蒲生が会津の年貢を下半期の分まで持ち去ってしまったので、自分たちも越後の分を持ち去るのが当然という理由だった。そのため、堀秀治は大きな減収となり、やむなく、新潟代官・河村彦右衛門から2000俵の米を借りたと言われている。こうなれば、当然農民に対する政策も厳しくなり、各地で百姓一揆が起こる。しかも、堀秀治が領内の検地を進めたところ、上杉家の違法な処置が次々に明らかになる。秀吉の転封命令によって、新任地へ移る大名は、武士は一人残らず連れていき、農民はすべて旧領へ残しておくことになっていたが、上杉はそれらに違反していた。大勢の農民が会津へ連れ去られ、耕作できない村落もあった。

 ところで、米沢藩は他の藩と比較して下級武士の数が圧倒的に多い。これは関ヶ原の戦いに敗れ、所領を4分の1に削られたにも関わらず、人員削減をせず、そのまま会津から米沢に連れて来たからである。必然的に家臣一人当たりの知行高は低く抑えられ、後に上杉家とその家臣たちの極端な経済的困窮につながっていく。同じ山形県内にあった庄内藩酒井家14万石の家臣は約1900人だが、米沢藩は約5000人で、家臣の極端な大人数が財政難の原因になった。

 高田藩は堀家以後、長沢松平、酒井、越前松平、幕府領、稲葉、戸田、久松松平と領主が目まぐるしく変わり、経済も治安も安定していなかった。榊原家の分家で、旗本1000石の榊原勝治の次男として生まれたのが政岑(まさみね)。本家榊原家の養子となり、榊原の宗家を継ぐ。宗家は徳川四天王の一人榊原康政、徳川譜代の中の筆頭格。政岑は播磨姫路藩15万石の第三代藩主となる。寛保元(1741)年、政岑29歳の春に吉原の高尾太夫の身請けをするが、それを将軍吉宗に咎められ、隠居のうえ蟄居、越後高田への転封となる。榊原家が姫路から高田に入ることになって、ようやく落ち着く。石高は同じ15万石(米沢藩もほぼ同じ)。

 その後、米沢藩では上杉鷹山高田藩では榊原政令がそれぞれ中興の祖として藩の財政を立て直す。とりわけ政令の政策は見事で、高田藩は幕末の頃には幕府を援助するほどになる。

 明治4年廃藩置県が実施され、藩祖を祀る神社建立が流行となる。米沢藩でも謙信の遺骸が城内から上杉家廟所に移され、併せて米沢藩中興の名君上杉鷹山を合祀し、「上杉神社」となる。明治35(1902)年に別格官幣社に列せられ、この時鷹山は新たに設けた摂社「松岬神社」に遷され、上杉神社は再び謙信のみを祀ることとなった。

 一方、高田藩では藩祖康政を祀る神社設立が計画され、広く領内より募金、明治8年社名を榊神社として認可され、明治39年県社に昇格、以後3代忠次公、11代政令公、14代政敬公も合祀される。

 既に述べたが、厚岸町太田屯田開拓記念館にはかつての太田兵村の資料が保存・陳列されている。太田兵村には山形、新潟、石川から人々が集められていた。記念館には旧米沢藩士は上杉神社を、また旧高田藩士は榊神社を奉っていた資料が展示されている。太田兵村の村社豊受神社とは別に、屯田兵となった旧米沢藩士の謙信、鷹山への崇敬の気持ちが太田兵村での上杉神社建立を実現させ、彼らはそこで式典を行っていた。一方、旧高田藩士たちは神社を建立しなかったが、榊原康政を祀る高田の榊神社の例祭日に合わせて式典を行っていた。この辺の事情については、次の論文に詳しく論じられている(Web上で検索すれば、読むことができる)。

加澤昌人「米沢を離れた旧米沢藩士の上杉神社の崇敬 ─屯田兵による神社の建立及び米澤有爲會支部における遥拝式から─」、『佛教大学大学院紀要文学研究科篇』第四十八号(2020年3月)、93-110