山越阿弥陀図と神仏習合

 「山越」という名字や地名は日本中にある。その原義は「山を越える」ことだが、近くを探せば、上越市板倉区に山越(やまごし)がある。山の稜線は此岸と彼岸を隔てる仕切りと捉えられ、それを越すことが浄土に行くことだった(長岡市のヤマコシは「山古志」で、平安時代の古志、高志に由来する)。

 柳田国男によれば、(1)仏教の浄土、(2)土着宗教の、死んで山に行き、天に帰る、の二つが日本人の「あの世」。折口信夫は『死者の書』で二つの山の間に沈む夕日が浄土につながると述べる。この作品の背景は二上山とそこに沈む夕日である。

 以上の二つを確認して折口信夫の『死者の書』を見直してみよう。折口がこの物語を書く前に見つめていたのは冷泉為恭が描く「山越(やまごし)阿弥陀図」(1863年、大倉集古館、冷泉為恭は狩野派の画家)で、それを折口自身が『山越しの阿弥陀像の画因』で詳しく述べている(青空文庫)。この図が冒頭の柳田の「あの世」の二つで、浄土と山が習合した来迎図なのである(画像)。山越阿弥陀図は数多く描かれ、山の端の稜線の向こう側に阿弥陀如来がその姿をあらわすという図で、自然の風景と阿弥陀来迎の幻想が交錯する形で描かれている。代表作には13世紀初めの禅林寺本(国宝)、同後半の京都国立博物館本、14世紀前半の金戒光明寺本があり、現存作例はいずれも鎌倉時代以降のものである。日本の古代以来の山岳に対する信仰があり、そこに山の端の稜線を此岸(穢土(えど))と彼岸(浄土)とを隔てるものとしてとらえる浄土思想が重なり、柳田の二つの「あの世」が習合して描かれている。

 臨終間近の人の前に、阿弥陀仏が極楽浄土から山を越えて迎えに来る。山越阿弥陀図はすべて鎌倉時代に入ってからの制作で、山の端にかかる落日か、または満月を阿弥陀に見立てるところからこの図様が生まれたようである。阿弥陀如来信仰は、来世に阿弥陀如来の住む西方の極楽浄土に生まれようとするもので、浄土教に共通している。この図では、日本の普通の山水風景が描かれ、中央の阿弥陀如来が山のすぐ向こうから迎えに来ている。

 余談だが、イエスは「天国」を説く。天国は「天の神の王国(God's Kingdom of Heaven)」で、そこはエデンの楽園と同じように、飢えも病も死もない世界。亡くなると、人の霊は肉体を抜け出し、イエスの言葉を心に受けた霊(意識の本体)は、エデンと同じ特徴をもつ天国に入ることができる。エデンの園にいたアダムとイブには死がなく、それゆえ、生殖は必要なく、純粋に霊だけの天使と同じだった。ところが二人は、創造神に背き、その結果、「死」が入ってきた。死によって、二人の身体は変化し、生殖が必要になった。

f:id:huukyou:20220208102458j:plain