「山椒大夫」は絵本や教科書で誰もが知っています。森鷗外の歴史小説だと知らない子供でもその物語を知っています。一方、説経の方は古典芸能として細々と残るだけで、ほとんどの日本人は「説経」という名称さえ知らず、「瞽女唄(ごぜうた)」などほぼ死語となっています。
では、説経、浄瑠璃、瞽女唄などの「さんせう太夫」と鷗外の「山椒大夫」はどのように違うのでしょうか。大胆に、直木賞と芥川賞の違い、大衆文学と純文学の違い、中世的人間像と近代的人間像の違いと表現すると、どれも正しくはないのですが、まずはそれ以上の違いがあり、鴎外の作品によって、説経などの主張は忘れ去られてしまったというのが私の考えです。江戸時代以前からの古い説経の世界から新しい西欧的な世界観に基づいて生きるべきだという鷗外の主張はその通りなのですが、現在の私たちには両方とも過去のものであり、私たちはより冷静に二つの世界観を比較できる立場にあります。ですから、鴎外の「山椒大夫」と説経の「さんせう太夫」を客観的に比較できるのです。
そのために、まずは説経を説明しておきましょう。「説経」とはお坊さんが経典の意味を説いて聞かせることで、「宿題を忘れて先生にセッキョウされた」という場合は「説教」ですが、「説教」も「説経」の意味で使われます。「説経(教)師」は神仏の教えを説く人のことで、経文を説き聞かせる人と、節をつけて語る人の二通りがあります。後者は説経浄瑠璃と呼ばれ、平曲や謡曲の影響を受けて、説経が歌謡化し、江戸初期に流行した大衆芸能です。「説経節」の「節」は浪花節の「節」と同じで、旋律を意味します。つまり、経文を説き聞かせるときに、リズムをつけたものなのです。
「説経節」は仏教を広めるため、僧侶が伝説に脚色を加え、仏教の声楽を基礎とした音曲で、『平家物語』で有名な琵琶法師もここから生まれました。でも、説教節は仏教芸能から次第に離れ、世界観や思想の背景は仏教色を残しながらも、観客に感動、悲嘆、哀切を伝える「物語」が前面に押し出され、大衆演芸となって行きます。
説経節は江戸時代の初期、寛永年間に関西で流行し、江戸でも流行りました。でも、同じ語り物芸能の義太夫節(竹本義太夫、近松門左衛門がコンビになり、『曽根崎心中』、『国性爺合戦』、『女殺油地獄』などが流行し、浄瑠璃はこの義太夫節をさし、説経節は古浄瑠璃系と言われる)が爆発的に流行し、説経節はそれに押される形で、特に関西で勢いを失っていきました。
「さんせう太夫」は荘園を統括する長者で、そこで働く民は過酷な労働を強いらていました。鷗外はこの古い語り物を、その歴史性は残しながら、彼自身の言葉によって再構成し、歴史小説を生み出しました。鷗外がこの作品を発表したのは1915(大正4)年、いわば日本が近代国家としてスタートを切り、西南戦争などの国内の争いや日清・日露戦争などの他国との戦争も起きた激動の明治が終り、ようやく自国の遠い過去を振り返る余裕が生じたときでした。
説経節の「さんせう太夫」の主人公は神仏の化身として讃えられる安寿ですが、鷗外は彼女を地上で行動する女性として描き、厨子王を彼女の願いを遂行する男性と位置付けました。そのような作品が生まれた経緯を辿ると、そこには鷗外の挫折がありました。軍医として国のために尽くさなければならないのに、小説を副業とすることはよくないという意見があり、鷗外は福岡の小倉に左遷されます。この左遷を通して、鷗外は変わります。立身出世のことしか頭にないエリートは左遷先で現地の人と触れ合い、変わります。東京に戻ってからは陸軍軍医総監の役職に就き、結婚して家庭を持ちます。その後、友人の死を受けて初めて歴史小説を書き、その流れで書かれたものが「山椒大夫」です。
原作の「さんせう太夫」と「山椒大夫」は、既述のように随分と違います。鷗外は典拠との違いについて、自らの随筆で述べています。鷗外の好みに合わない部分に脚色を加え、その結果、(説経節では人々の涙を誘い、心を震わす)残酷なシーンは大幅にカットされています。