小川未明の童話には執筆時の社会や自身の状況が色濃く反映されている場合が多い。それはどの作家にもある程度は言えることなのだが、未明の場合はとても分かりやすいのである。初期の「野ばら」(1922、大正11)は「国境を見張る大国の老兵と小国の青年兵が親友になるが、二国の間で戦争が勃発。国境に残った老人は、戦争に行った青年の身の上を案じながら、一人で暮らしていたが、終戦後、老人は小国の兵士の全滅を知る。その夏に野ばらは枯れ、老兵は息子や孫の待つ祖国に帰る。」という話で、私が好きな未明作品の一つである。だが、現在多くの大人はこの童話をロシアとウクライナの戦争という文脈に置いて読み、子供に説明するのではないか。だが、それは大人の読者の状況依存であり、それを未明が知る由はなく、大正時代の彼の反帝国主義的な考えが子供にもわかる仕方で巧みに考案され、表現されていることが理解できるのである。1年前の「赤い蝋燭と人魚」(1921、大正10)も私の好きな作品だが、どのような状況や文脈を背後に置いて書かれたのかなどほとんど考える必要がない。何の前提もなしにそのまま読んで、内容を素直に理解できる、と大人の私は思うのだが、恐らく子供も同じではないか。西洋の倫理が勝った、明晰で読みやすい鷗外の「山椒大夫」より、古い日本の庶民の姿が人魚によって描き出され、鴎外が切り捨てた前近代的な生き様が伝わってくると評価することさえできるのである。
だが、未明の場合、この文脈に頼らない、童話だけで著者の主張が完結する、普通のスタイルが昭和に入り、大きく転換し始める。「野ばら」について、多くの大人はこの童話をロシアとウクライナの戦争という文脈に置いて読み、子供に説明するのではないか、と述べたが、転向した未明の童話は日本の戦争という文脈を前提に執筆され、その同じ文脈の中で子供たちに読ませることを半ば強制しているのである。未明は自らの童話によって戦争に積極的に関わり、それによって天皇制を守りたいと考えていた。大正期の彼の童話が文脈や状況から比較的独立した、いわばある程度の普遍性を持っていたのに対し、昭和の戦中期の童話が軍事的な政局、状況に強く依存した局所性を持っていたのである。これは状況が変化すれば、すぐに意味を失うことを意味していた。それ故、当時のイデオロギーに反対する現在の大抵の人には未明のこの時期の童話は異様で、常軌を逸しているとしか思えないのである。
1937年の「友情」は戦死した兄とその死を端然と受容する童話で、それが次第に天皇擁護と1940の大東亜共栄圏の構想が童話に反映されていく。「頸輪」(1942、『小国民文化』)は、子犬の頸輪を噛み切り、命を救った日本犬はアジアを開放する日本だと小学生の武夫が考えるのだが、これは童話というより、訓話でしかなくなっている。未明が子犬で侵略されるアジアの国々を表現し、その子犬の命を救った日本犬によって日本を表現しているのは明らかで、子供向けのプロパガンダと言った方が適切である。「頸輪」は国の宣伝であり、それゆえ、100%状況に依存していて、当時の日本の姿そのものだった。
この熱狂、信仰は未明の生い立ちから説明できるのかも知れない。彼の父親と神道、そして、儒学からの影響、さらには大正期の未明を支えた政治思想、早稲田で短期間ながら影響を受けた小泉八雲の天皇観など、様々な理由が浮かび上がってくる。1941年に日本小国民文化協会が結成され、未明の活動はさらに活性化され、1942年には日本少国民文化功労章を受章している。だが、終戦とともに、未明は突然に豹変する。
戦後の民主主義的な童話も戦中の童話に似て、敗戦と民主主義、そして復興という文脈の中で執筆されたもので、再転向しても未明の童話制作の状況依存性は同じだった。そして、それが大正期の作品(既述の「赤い蝋燭と人魚」、「野ばら」など)との大きな違いなのである。文脈や状況に依存しない、つまり普遍性のある童話が優れた童話かどうかは意見が分かれるかも知れないが、少なくても私は文脈に依存する童話は信用できないと思うのである。
童話に似た、しかし、より重要な教材である教科書は今でも状況に依存した記述かどうか問題にされていて、それだけ状況依存度が高いことを示している。
*1937(昭和12)年の「僕も戦争に行くんだ」は戦争遂行のための童話で、未明の転向がはっきりわかります。1949(昭和24)年の「戦争はぼくをおとなにした」は、からかわれているおばあさんを助けた主人公が自分の戦争中の辛い体験を思い出す話。未明は子供たちに戦争に行くことを促し、戦争は残酷なものだと教えるのですが、童話の主張はそれぞれの童話の状況次第で異なるとでも言うのでしょうか。