連休中に知る仏教略史(3)

<仏教の伝播と教義の変質>

 中国に伝わった仏教は経典の翻訳から始まります。有名な鳩摩羅什はインド人の翻訳家です。わが国では唐時代の玄奘三蔵が訳した様々な経典が知られています。玄奘三蔵は翻訳家というより、中国に不足していた仏教関連資料の輸入に貢献しました。彼は三蔵法師として『西遊記』の主人公になり、孫悟空猪八戒を従え、天竺に旅します。西安には街の南に玄奘三蔵が持ってきた経典を収めてあったという大雁塔が今も聳えています。

 次の段階は、中国の人々の考え方を仏教の教義に取り入れることです。中国に仏教が伝わったとき、中国人に受け入れ難かったのは、出家して修行することでした。紀元前後に中国を支配していた漢は国家運営のために儒教を採用しました。儒教孔子の教えで、政治は人徳によって行わなければいけない、その人徳は目上の人を敬い、親に孝行しなければいけないという道徳でした。でも、出家は親を捨てるということを意味していますから、儒教の親孝行の考えに反します。したがって、プロの僧侶が代わりに出家してくれる大乗仏教儒教の教義に好都合でした。でも、仏教の中に儒教の考え方を取り入れる抜本的な変更が不可欠でした。儒教化された仏教が作られ、中国製の経典がたくさん作られました。中国製の経典は偽経(ぎきょう)と呼ばれ、仏教の中国化が進むのです。

 紀元前3世紀頃まで続く中国の春秋戦国時代には、諸子百家と呼ばれる思想家によって、儒教だけでなく、多くの思想が出現し、仏教が伝来した時には既に様々な考え方が中国に存在していました。そのうち「無為自然(なにもせず、自然にまかせること)」を説く老子荘子の考え方は道教として信仰されていて、「空」を基本原理とする仏教を受け入れる素地ができ上がっていました。

 仏教は種々の既存の民間信仰と一緒になり、儒教の考えを取り入れ、中国化されていきます。例えば、輪廻転生について、中国の南北朝時代民間信仰チベットに伝わった仏教に取り入れられ、「死者の書」という本になっています。そこでは十王説が説かれ、今の法事の根拠になっています。つまり、人は死ぬと、閻魔大王など10人の裁判官に前世での善い行いや悪い行いを次々に判定され、最後に極楽や地獄に振り分けられるという考えです。十王説では「悪いことをしたら地獄に落ちる」と説かれ、人々の恐怖心を刺激し、正しく生きるように導くということで、本来の仏教にはなかったものです。また、今もあるお盆の行事も中国の民間信仰がもとになったもので、主人公の目蓮の親孝行の話を述べた『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』という経典に基づいています。

<仏教哲学および体系化の完成>

 2~3世紀にかけて、インドの僧侶ナーガルジュナが、哲学的な観点から大乗仏教の体系化を行いました。ナーガルジュナは中国や日本では、「龍樹」と呼ばれています。龍樹は『中論』で、『般若経』が述べる「空」を理論化しています。つまり、仏教の公理である「無常」という概念自体が自己言及型の論理の破綻(「無常」それ自体を無常という概念の中で対象化しようとすると、矛盾が起こること)を内包しており、これを克服するメタ原理として「あらゆる現象はそれぞれの時間的、空間的な関係の上にのみ成り立っており、現象自体が独立して実在しているのではない」と捉え、それを「空」と名づけました。龍樹によれば、「空」=「縁起」=「因縁」(空は物事が縁起によって生じ、因縁の関係の中にあるという主張)となります。

 同じ「空」を理論化した哲学として、4世紀に無着と世親の兄弟が体系化した唯識論があります。唯識論は「事物としては存在しないが、八種類の意識(魂)として存在し、その意識に基づいてヨーガによって悟りの境地に達する」と考えます。「認識できない心がものごとを作り出す、すべては心が作り出した」と主張されると、存在を否定する主張に思われますが、ここで問題とされるのは「それが存在しているかどうか」ではなく、「それが存在していると認識しているかどうか」です。唯識は死後にも不滅の魂に相当する意識としてアーラヤ識も存在すると考えますから、龍樹の空観の哲学と唯識論は真っ向から対立することになります。この空観と唯識大乗仏教を代表する二大哲学なのです。

 一方、中国人で仏教の構造を体系化した人に天台大師智顗(ちぎ)がいます。6世紀の人です。智顗は、釈迦が一生のうちでいろいろなことを言ったが、そのときの年齢が違うし、言った相手の知的能力も違うのだから、同じことを違う言い方で言ったに違いないと考えました。釈迦の年齢順に、順番に並べてみた結果、全体を五つの時期に分け、それを「五時の教判(ごじのきょうばん)」と名づけました。五つの時期の経典は、『華厳経』、『阿含経(原始経典)』、『維摩経』、『般若経』、『法華経』の順番で、最後の決定版が『法華経』です。この五時の教判は、結果として、経典に優劣をつける結果となりました。天台大師智顗は中国の天台山天台宗を開いた僧侶で、その天台宗平安時代初めに最澄が学び、日本にもたらした宗派です。仏教はクシャ-ナ朝で繁栄しましたが、チャンドラ・グプタによるグプタ朝の成立という王朝の交代によってインドの仏教は急速に廃れて行きます。インドでは、ヒンズ-教と仏教は同じ宗教だとする考えが一般に広まって、今でもインドの人々は仏教をヒンズ-教の一宗派くらいにしか考えていません。一方、中国に伝わった仏教信仰は、様々な考え方を吸収し、変りながら拡がっていき、三国時代には朝鮮半島にまで達し、6世紀半ばに日本に伝わりました。中国を経由した大乗仏教は本来の釈迦の考え方とはかけ離れたものになり、独自の哲学を背景に仏教という名前で一人歩きを始めました。でも、大乗仏教が結果的に釈迦の主張に背いた考え方になったとしても、なお哲学として優れた考え方をもつ宗教になったのもまた事実です。

<日本への仏教伝来>

 日本へ仏教が伝わって来たのは6世紀で、百済聖明王を通じてでした。これを受け入れるか否かについて賛成派の蘇我氏と反対派の物部氏の間で意見が分かれ、最終的には賛成派の蘇我氏が勝利を収めました。蘇我氏を背景に本格的に仏教を研究し、同時に国の政策に採り入れたのが聖徳太子です。

 奈良時代に入ると、国をあげてインドや中国から仏教の輸入が行われました。その中身は、上座部系の倶舎(くしゃ)、成実(じょうじつ)、大乗系の律(りつ)、法相(ほっそう:唯識)、三論(さんろん)、華厳(けごん)の六宗派です。これら宗派は鎌倉時代以降の宗派とは違って、相互交流をもち、一つの仏教学部内の教室の違いに過ぎず、一つの寺院にも色々な宗派の僧侶がいたようです。これが南都六宗です。さらに、聖武天皇による大仏建立など、国家プロジェクトとして仏教が利用され、政策として仏教普及が推進されました。道鏡の出現などによる平安遷都は従来の奈良仏教から政治を分離しようする一種の政治改革、宗教改革でした。

<日本における釈迦思想の復活-最澄空海

 平安時代から鎌倉時代にかけて釈迦の考え方に比較的近い仕方で独自の考え方を折り込んだ新興宗教が興りますが、これが日本仏教の大きな特徴で、それらは大乗経典を基本にしていました。

 天台宗をもたらした最澄は平安遷都を進める上でのブレーンの役割を果たしました。最澄桓武天皇から注目されたきっかけは、平安京の鬼門にあたる北東の方角にある比叡山に寺院を建てたことです。その最澄天台宗輸入は天皇の命を受けて行われ、天台宗はその後の新興仏教が興こるきっかけを与えたのです。

 また、最澄と一緒の遣唐使に便乗した空海密教をもたらします。空海長安密教僧恵果に弟子入りし、密教の奥義を伝授され、宗教としての密教を完成させます。密教では釈迦の悟りを追体験することを目指し、宇宙を信仰の対象にして様々な秘術を用いて修行します。空海は大乗、小乗どちらも包含する壮大な体系構築を狙っていました。

 ところで、密教はどのような仏教なのでしょうか。釈迦の悟りの境地を知るには大きく分類して二つの方法があります。一つは釈迦が残した言葉から学ぶこと、つまり、経典を注解し、悟りに達する方法です。もう一つは釈迦が悟りに達した状況を直接に追体験する方法です。釈迦が悟りの境地に達した時が仏教の始まりですが、実は釈迦は初め誰にもその悟りについて話しませんでした。釈迦は21日間黙っていました。その後に人々に話し始め、それを聞いた弟子たちが釈迦から話を聞くことによって、教えを学び始めたのです。釈迦に心境の変化を起こさせたのは梵天です。これを「梵天勧請」と呼び、上座部経典に説かれています。梵天バラモン教から輸入された仏の一つです。このように22日目以降に釈迦が話し始めた教説が「顕教」と呼ばれます。顕教では釈迦の教説を記録した経典を学ぶことによって、つまり、釈迦の言葉を通して教えを学ぶのです。

 ところが、何も話さなかった最初の21日間に着目して、その時の釈迦と同じ精神状態を追体験しようとする考え方があり、これが「密教」です。最初の21日間の釈迦、すなわち釈迦の口から出る言葉(サンスクリット語真言)、姿勢、心もちをそのまま全部追体験しようという試みです。具体的には真言を唱えながら、印契を結び、いわゆる催眠状態を目指すのです。これは今風には超常体験の追体験です。例えば、サンスクリット語の呪い、例えば、『般若心経』の末尾に出てくる呪文の部分が真言の例です。こうして、密教は本質的に自力的なもので、釈迦の境地に達するのは祈祷者自身であり、真言宗の僧侶に祈祷を頼んでご利益を得るということは原理的に間違いだということになります。

 本題に戻りましょう。空海密教には二つのキーワードがあります。一つは「ご利益」です。病気が治るとか、土木工事がうまくいくといった庶民に直接関係のある「ご利益」を強調し、実現してみせることによって、それまで官主導で進められてきた仏教信仰を庶民文化の中に定着させるという役割を担ったのです。これは、理屈抜きで信じるという正真正銘の宗教であるという効果をもっていましたが、同時に密教が宗教のもつ一抹のいかがわしさを持ったことは否定できません。もう一つのキーワードは「即身成仏」です。空海は死期を悟った後、高野山奥の院に篭り、そのまま成仏したと伝えられています。これによって、成仏と死が直結してしまうのです。

 最澄は中国天台山揚子江の河口近く)に短期間留学して天台宗の仏典を持ちかえっただけで、天台宗の教えの研究自体は帰国後に持ち越されました。ところが、最澄が帰ってしばらく経つと、天皇嵯峨天皇に代わり、空海が脚光を浴びることになり、日本に密教ブ-ムが起こりました。この時点で、最澄は流行に乗り遅れるかもしれないと焦りを感じたと思われます。天台宗は『法華経』を重要視する宗派ですが、『法華経』には禅や浄土などの要素も含まれていて、言ってみれば、基本的に何でも受け入れることができる宗派でした。そのため、密教的な要素を入れても教義自体が変わるというようなこともなく、密教の侵入を許したのです。天台宗密教は「台密」と呼ばれます。こうして、天台宗は考え方の範囲が非常に広い宗派になり、天台宗自体の研究は最澄の帰国後の課題であったため、研究すべき事柄がたくさん残り、宗教というよりは学術的な雰囲気の中で宗派が維持されてきました。最澄自身もそれまで政治と一体となっていた奈良仏教を批判し、政教分離という原則に立って仏教の変革をしようと朝廷を利用したのです。

 最澄空海が以後の日本仏教の原型を作りました。庶民の仏教信仰という観点から「お大師様」空海が重要ですが、歴史的な意味では最澄天台宗がより重要になります。なぜなら、ほとんどの僧侶は完成された高野山ではなく、未完成の比叡山を目指し、比叡山は多くの逸材が修行、研究する場を提供したからです。その中で鎌倉時代比叡山で学んだ数人の天才僧侶たちが、天台宗のやり方に不満や疑問をもつことによって、新仏教を生み出していくことになります。