最澄と空海の役割

 日本へ仏教が伝わって来たのは6世紀。新羅に対抗しようと百済聖明王は日本の援軍派遣を願い、当時最先端の仏像や仏典を日本に贈りました(関山神社の銅造菩薩立像もその一つ)。仏教に賛成の蘇我氏、反対の物部氏が争い、勝ったのは蘇我氏。そして、本格的に仏教を研究し、それを政治に利用したのが聖徳太子
 奈良時代になるとインドや中国から仏教の輸入が盛んになりました。さらに、聖武天皇による大仏建立など、国の政策として仏教の普及が進みました。そして、平安遷都は従来の奈良仏教から政治を分離しようする一種の政治改革=宗教改革でした。
 平安時代初めに、仏教改革を行うべく最澄天台宗を輸入し、平安遷都を進める上でのブレーンの役割を果たします。さらに、最澄と一緒の遣唐使に便乗した空海密教を輸入します。空海は都の長安密教を受け継ぎ、日本で密教を完成させました。空海は大乗、小乗どちらも含む壮大なシステムの構築を考えていました。
 釈迦の悟りを知るには二つの方法があります。一つは釈迦が残した言葉から学ぶこと、つまり、経典を注解することによって悟りに達する方法で、これは古典テキストの学習で洋の東西を問いません。もう一つは釈迦の悟りを直接に追体験する方法です。
 釈迦が悟りに達した時が仏教の始まりだとすれば、実は釈迦は自らの悟りについてすぐには話さず、沈黙の期間が21日ありました。21日経って初めて他の人に話し始め、それを弟子たちが聞くという仕方で仏教がスタートします。このように22日目以降に釈迦が話し始めた教説が「顕教」と呼ばれます。ですから、顕教では釈迦の言葉を通して教説を学ぶということになります。ところが、何も話さなかった最初の21日間に着目して、そのときの釈迦と同じ精神状態を追体験しようとする考え方があり、これが「密教」です。最初の21日間の釈迦、すなわち釈迦の口から出る言葉(サンスクリット語の「真言」)、姿勢、心もちをそのまま全部追体験しようという試みです。具体的には真言を唱えながら印契を結び、いわゆる催眠状態を目指す訳で、超常体験としか言いようがありません。
 「悟り」と「悟りの告白」は違うでしょうが、「悟りの内容」に違いはない筈です。ですから、顕教密教の違いは根本的に異なるというものではなく、互いに補完し合うものです。知識は言葉で表現されるものですから、意識体験が知識獲得に必要でも、獲得された知識は言語によって表現されなければなりません。言語ではない実験や観察は、それがないと実証的な知識は手に入りません。実験や観察と同じように、修行体験によって知識が手に入ることはあるとしても、手に入った知識は言語で表現されなければ知識と呼べません。
 本題に戻り、空海密教には二つの重要な特徴があります。一つは「ご利益」です。病気が治るとか、河川の土木工事がうまくいくなどといった一般庶民に直接関係のある「ご利益」を実現してみせることによって仏教信仰を庶民生活の中に定着させました。これは、「理屈抜きで信じる」という点で宗教上は効果的でしたが、それと同時に密教がいかがわしさを持ったことも否定できません。もう一つの特徴は「即身成仏」です。空海は死期を悟った後、高野山奥の院で成仏したと伝えられています。これによって、成仏と死というものが直結することになります。
 最澄天台宗の仏典を持ち帰っただけで、その研究自体は帰国後に持ち越されました。ところが、最澄が帰ってしばらく経つと、空海が脚光を浴びることになり、密教ブ-ムが起こります。この時点で最澄は焦りを感じた筈です。天台宗は『法華経』を重要視する宗派ですが、そこは禅や浄土などが含まれていて、基本的に何でも受け入れることができ、そのため、密教も自然に入ってしまいました。天台宗密教台密と呼ばれます。こうして、天台宗は考え方が寛容な宗派になり、天台宗自体の研究が最澄の帰国後の課題であったことから、研究すべきことがたくさん残り、学術的な環境の中で宗派が維持されてきました。
 最澄空海が以後の日本仏教の原型を作りました。庶民の信仰という観点からは「お大師様」空海の役割は絶大ですが、歴史的な意味では最澄天台宗がより重要です。なぜなら、これ以後ほとんどの僧侶は完成された高野山ではなく、未完成の比叡山を目指し、比叡山は多くの逸材に修行、研究する場を提供したからです。そのような中で鎌倉時代に入ると、比叡山で勉強した数人の天才僧侶たちが、天台宗のやり方に不満や疑問をもつことによって、新しい日本仏教を生んでいくことになります。