小川未明の三つの時期

 小川未明は高田の旧下級士族に生まれました。小川未明の父澄清は上杉謙信の崇拝者で、1901(明治34)年米沢市の謙信を祀る上杉神社より分霊、謙信公を祭神に祀った春日山神社を創建しました。上杉謙信の信奉は、小川父子に共通するもので、小川未明の思想や文学創作に大きな影響を与えました。また、漢学塾教育も小川未明の文学創作に影響を与えています。彼は小学校に入学する前から漢学塾で学び、四書五経を中心とした儒教の教育を受けました。

 小川未明に関わる主要な作品を、不十分ですが先に列挙しておきましょう。

・1921(大10)「赤い蝋燭と人魚」(東京朝日新聞夕刊)(1975(昭50)いわさきちひろ画で、童心社刊)

・1926(大15)「今後を童話作家に」(東京日日新聞)(未明の童話作家宣言)

・1942(昭17)『新しき児童文学の道』フタバ書院成光館(未明の軍国主義的な思想をまとめたもの)

・1959(昭34)古田足日『現代児童文学論:近代童話批判』(くろしお出版)(未明らの近代日本童話からの脱却を宣言したもの)

・1966(昭41)上笙一郎『未明童話の本質-「赤い蝋燭と人魚」の研究』(その成立過程を多角的に追求)

・2002(平14)岡上鈴江『父 小川未明』(新評論、初版は1970)(岡江は未明の次女)

 

(1)小説から童話へ

 童話に転向した未明の優れた作品の多くは大正期に生まれています。中でも私が好きなのは「赤い蝋燭と人魚」(1921)で、未明39歳の作品。彼が「日本のアンデルセン」と言われることになった作品です。人間は優しいと思った人魚の母が自らの赤ん坊を老夫婦に託しますが、老夫婦は裏切り、香具師に人魚の娘を売ってしまうという物語です。東京朝日新聞に連載され、小川未明出世作となりました。未明の故郷の高田には「人魚塚」という民話があり、未明は明治45年の「北方文学2号」でそれについて書いています。それ以上に、アンデルセンの「人魚姫」が強く影響しています。「人魚姫」の翻訳は明治44年上田万年によってアンデルセンの25編の童話が翻訳された『安得仙家庭物語』(鐘美堂)に「小海姫」の題名で掲載されたのが最初。その後、「人魚姫」は1920(大9)年に西条八十により翻訳され,「人魚ものがたり」の題名で『金の船』に掲載されます。未明は同じ童話作家西条八十が翻訳した「人魚ものがたり」に刺激をうけ,これまであたためてきた上記の越後伝説をモチーフにした童話を1921(大10)年2月の『東京朝日新聞』に「赤い蝋燭と人魚」の題名で発表したと思われます。越後の暗く陰鬱な冬の風景と呪文のような文章が原作とは異なる独特の世界を描き出しています。

 次の年に発表されたのが「野ばら」(1922)で、未明40歳の作品。老兵と青年兵が二つの国の国境を見張っていました。老人は大きい国の兵士で、青年は小さい国の兵士でした。二人は親友になりますが、二国の間で戦争が勃発。老兵が自分を殺して手柄にしなさいと青年兵に言いますが、青年は、どうしてあなたを敵にしなければならないのかと答えて殺すことを拒否し、遠い戦場へ向かいます。国境に残った老人は、青年の身の上を案じながら、一人で暮らしていました。終戦後、老人は近くを通りかかった旅人から小国の兵士は全滅したと教えられます。その夏に野ばらは枯れ、老兵は息子や孫の待つ祖国に帰ります。友情の素晴らしさと戦争の理不尽さを語りかけてくる「野ばら」は妙に心に残る作品で、その後の未明の作品とは大きく異なっています。人生の義ではなく、善のすばらしさを語っています。

(2)戦時の未明

 「少女と老兵士」は『中央公論』に1939(昭和14)年に発表されます。この辺から未明の思想も行動も変化していきます。1941年日本少国民文化協会が発足し、この協会は戦中において唯一の公的な児童文化団体でした。1943年には戦況が悪化し、日本少国民文化協会は創立の目的に「聖戦を完遂二挺進スルヲ目的トス」を加え、翼賛団体としての性格を一層鮮明にしました。未明は少国民協会委員で、1942年に第一回少国民文化功労賞を受賞しています。次女の岡上鈴江小川未明が熱狂的な愛国者であり、無条件の信頼から大東亜共栄圏の建設に参加したと考えています。

 日本小国民協会の上部団体として日本文学報国会が昭和17年に設立されますが、会長は徳富蘇峰で、彼は大日本言論報国会の会長にもなっています。徳富蘇峰の会長就任は自ら進んでの受託ではなく、そのためか彼の活動はほとんどありませんでした。日本文学報国会が文壇の一元化のためというより、時局への即応を表面的に示しながらも、時局の風圧を回避するための防壁、隠れ蓑の役割を果たしていたと考える会員が多かったのですが、未明は日本少国民協会を国民が戦争に向き合うために不可欠の組織であると考えていたようです。

(3)戦後の未明:「暗愚小伝」と「子供たちへの責任」

 高村光太郎は彫刻家の高村光雲の長男で、太平洋戦争中は日本文学報国会の詩部会長に選ばれ、多くの戦争賛美詩を発表しました。この点では未明によく似ています。既に戦時中の光太郎と相馬御風との交遊について述べました。御風は光太郎と同じ1883(明16)年の生まれですが、明治末に与謝野鉄幹・晶子の新詩社に加わり、そこで光太郎と知り合っています。大正に入ると光太郎は口語自由詩に移行しますが、御風は1908(明治41)年には既に口語自由詩を発表しています。光太郎は日本文学報国会の詩部会長を務め、御風も会員に名を連ねています。

 戦後、光太郎は自らの詩が若者を死に追いやった自責の念から岩手県の山村で自炊の生活を送ります。人道主義的な立場にありながら、積極的に戦争に協力したことへの自責の詩が「暗愚小伝」です。彼が敗戦となるまでの自らの生涯を振り返ったものです(長編の詩ですが、Web上で読むことができます)。

 さて、未明が属していた日本少国民文化協会は1942年2月に発足。大政翼賛会の指導下にあり、戦時下の少年たちの戦意昂揚を目的としていました。また、日本文学報国会が発足したのは1942年5月。内閣情報局の指導によってつくられ、文学者が「国策の周知徹底、宣伝普及」にあたることを目的としており、会長に徳富蘇峰、常務理事に久米正雄、理事に下村海南、長与善郎らが就任し、事務局のもとには小説、劇文学、評論随筆、詩、短歌、俳句、国文学、外国文学の8部会が置かれていました。

 光太郎に似て、未明も少国民文化協会設立の会合などで愛国的情熱を吐露して少国民文化建設を叫んでいました。光太郎の「暗愚小伝」に対して未明は「子供たちへの責任」(『日本児童文学』1946(昭21))を書きます。「戦争中はいかなる言葉をもって子供たちを教えたか。指導者らには何の情熱も信念もなく、ただ概念的に国家のために犠牲になれといい、一億一心にならなければならぬとかいって、形式的に朝晩に奉仕的な仕事を強制して来た。…それが終戦後の態度はどうであるか。今までの敵を賛美しまちがっていたことを正しいといい、まったく反対のことを平然として語っている。子供は大人に対して抗議する力をもっていない。しかし批判力がないとだれが云い得よう」と述べる真意は何だったのでしょうか。