山頭火のルール無視

 「季語がなければ川柳だ」と断言できないのが現在。川柳には俳句にみられる季語や切れのルールがなく、現在ではもっぱら口語で、字余りや句跨りの破調、自由律や駄洒落もよく見受けられます。将棋とチェスは似ていますが、二つが異なるゲームであるように、俳句と川柳は似ていても、異なるルールをもつ違う文芸です。とはいえ、俳句のルールも川柳のルールもとても曖昧ですから、いずれとも区別のつかない作品が多く出てくることになります。その典型例が種田山頭火の作品。

 山頭火と言えばラーメン屋さんと思う人が多いでしょうが、俳人種田山頭火は酒浸りの廃人のような生涯を送りながら、自由律の俳句を作り続けました。何も飾らず、何も隠さず、ただ感じるままに、「語ること=詠うこと=呟くこと=想うこと」が混然一体になって彼は自分の世界を表現しています。でも、どれほど直截に表現しようと、背後の傷ついた自分が滲み出てしまうのです。

 その山頭火でさえ、日本語の文法はしっかり守っていますし、それより基本的な論理ルールにも違反していません。俳句のルールは勝手に破ったのですが、日本語の文法ルールや論理ルールはしっかり守っています。それらを破ると、折角の句が単なる文字系列に堕してしまうことを彼は熟知していました。彼は意味が通じる最低限の表現を自分に課しているかのように余計な虚飾はすべて剥ぎ取っていますが、文法や論理のルールはしっかり守っているのです。山頭火は俳句のルールは無視し、時には破ったのですが、文法や論理のルールは破っていないのです。

 彼の句の幾つかを下のような二つに配置してみます。どれも素直に俳句とはいえないものばかりですが、配置してみると、二つの詩として詠むことができます。私の勝手な配置換えですから、半ば遊び心で見て下さい。俳句と詩の距離が随分と近くなることが実感できるのではないでしょうか。

 

 まっすぐな 道で さみしい

 どうしやうもない わたしが 歩いてゐる

 風ふいて 一文も ない

 

 お天気が よすぎる 独りぼっち

 こんなに うまい水が あふれてゐる

 あたたかい 白い飯が 在る

 

 次は山頭火風の俳句が金子みすゞの詩に似ていることです。彼女の詩を知っている方は、似たような印象を持ち、そして、山頭火の句からなる上記の詩(?)に似ていると思う筈です(下の三つの文は私がつくったもの)。

 

 人はみな 同じ人でも 違う顔してる

 人はみな 違う顔して 違うことする

 人はみな 違うことしても みな同じ

 

 山頭火の俳句ルールの無視は俳句の可能性を広げ、新しい地平を切り開いたと言われるのですが、私も彼流のルール破りをしてみると、素人ながら少しはその意味をわかったような気がするのです。