赤倉温泉史:紅葉と政令

 新潟文化物語のfile-171 「赤倉温泉物語~妙高倶楽部が目指した高級避暑地~」で大正時代の赤倉温泉の開発史が述べられています。そこで江戸、明治初期の赤倉温泉の歴史の二コマを略述しておきます。

https://n-story.jp/topic/file-171/

 尾崎紅葉の『煙霞療養(えんかりょうよう)』は、1899年7月1日に上野を出発し、赤倉温泉に2泊、新潟市に5泊、佐渡20日間余り過ごした旅日記で、その目的は持病を治すためでした。新潟に親戚(叔父が大蔵官僚で、当時新潟の税務署長)がいて、紅葉の健康状態を心配して、療養に来るよう再三言われ、決心したのです。当時は、清水トンネルがなく、東京から新潟へは高崎から長野に入り、妙高を経由して直江津に出るしかありませんでした。直江津までが12時間、ここに一泊して、さらに新潟まで行く予定でした。その初日から赤倉滞在の本文を見てみましょう。

 

…入ってみると大変が有る。出札口に掲示して、水害の為線路毀損に付田口駅以北は不通の事、と飽くまで祟つて居るのであつた。…何とか禍を転じて福と作す工夫は有るまいか、と鉄道案内の一〇二頁と云ふのを見ると、田口駅の項に「赤倉温泉あり」としてある。

 

…六時三十分に垂として新潟県下越後国中頸城郡一本木新田赤倉鉱泉(字元湯)香嶽楼に着す。

 

…凡そ己の知る限りに、此ほど山水の勝を占めた温泉場は無いのであるが、又此ほど寒酸の極に陥つた町並を見たことが無い。

 

 この最後の文は紅葉の実感が素直に出ていて、明治の赤倉の姿が浮かび上がってきます。見事な山の風景をもつ温泉でありながら、これほどまでに貧しく苦しみの極みにあるような町並という好対照の姿を想像するのは、(妙高の人々には)何ともつらい気持ちになります。紅葉は自然とその中の赤倉の両方を直截に対比し、描いてみせたのです。

 では、紅葉の「山水の勝を占めた温泉場」はどのようにできたのでしょうか。榊原政令(まさのり)は1776(安永5)年に生まれ、1810(文化7)年35歳で家督を継ぎ、藩政に尽くした名君。藩士への産綬事業推奨、領内赤倉山の温泉を掘削し、赤倉温泉を開き、藩士に果樹の木の植樹を推進するなど多方面にわたる改革や産業の育成を行い、藩財政を立て直しました。また、陸奥国の飛び地分9万石余のうち5万石余を高田城隣接地に付け替えられるという幸運もあり、藩財政は安定しました。

 彼は思い切った人材登用、倹約令の発布、新田開発、用水の開鑿、内職の奨励、牧場の経営までやりました。例えば、倹約令なども徹底しており、食事はどんな場合も一汁一菜。また、「武士がそろばんをはじいて何が悪い」と藩士たちにも盛んに内職を勧め、それまでは隠れて内職をしていた下級藩士たちは、堂々と内職をするようになります。藩士たちの作った曲物、竹籠、盆提灯などが特産品として信州や関東にまで売り出されました。

 さて、赤倉温泉は1816年に開かれました。地元の庄屋が地獄谷の温泉を麓に引いて湯治場を作りたいと高田藩に願い出ます。高田藩の事業として開発が始められ、温泉奉行を置く藩営温泉となります。今風には第3セクターによる公営事業です。妙高山を領地としていた関山神社の別当宝蔵院に温泉買い入れ金800両、関温泉への迷惑料300両を支払って開発が始まりました。2年間の開発経費3120両、温泉宿などの建設経費2161両で、当時としては大開発事業でした。

 政令財政再建によって榊原家は持ち直し、天明天保の飢饉の際には一人の餓死者も出しませんでした。さらに、彼は大砲を鋳造し、ペリー来航の際、その大砲を幕府に寄進しています。