高田藩の第三代藩主の榊原政令(まさのり)は辣腕経営者であり、高田藩のCEOとして86歳で亡くなるまで巧みな手腕を発揮しました。彼が借金をしたか否かは素人の私には定かではないのですが、たとえそうだとしても、その借金を有効に活用し、藩政に役立てたことは容易に想像できます。
徳川吉宗は農政を安定させるために全国で治水や新田開発を奨励し、越後でも多くの新田が開発され、河川が整備されていきます。農業用水を確保し、広大な領域が灌漑され、米の生産量は大きく増えました。でも、開発を急ぎ、強引に治水した河川が耕作地に近く、各地で洪水が頻発します。さらに、稲作の過度の奨励は冷害につながりました。当時は寒さに強い品種が少なく、高田藩を含めた冷地では米の安定した収穫が困難だったのです。実際、1742年水害(関川・矢代川、稲田橋が流される)、1743年出水の影響で、秋の収穫が激減、1744年大雪、1751年宝暦高田の大地震と災難が続き、高田藩は⾧年財政難に苦しむこととなりました。
1810年藩主になった政令は天才的なやり手でした。幸運にも前年の1809年に陸奥国の飛び地分9万石余のうち5万石余を高田城隣接地(頸城郡)に付け替えられ、それが藩財政安定の基礎となりました。彼は家格にとらわれず、人材を登用し、財政再建のために家来たちに倹約を徹底させます。赤倉温泉を開き、幕末には藩士に洋式兵法を学ばせ、殖産政策を成功させ、藩の米倉には常に8万俵が蓄えられていました。そのため、天保飢饉の際に一人の餓死者も出していません。それどころか、幕府に5千俵の米を献納し、他藩に米の貸付まで行っています。1827年に政令は隠居するのですが、次の政養(まさきよ)、政恒(まさつね)の二代34年間、1861年86歳で亡くなるまで、彼は後見として実権を握り続けます。その間、兵法に洋式を取り入れ、大砲を鋳造し、1853年のペリー来航の際、その大砲を幕府に寄進しています。戊辰戦争が始まり、最後の藩主政敬(まさたか)は新政府軍に従います。奥羽越追討の勅令が下り、高田藩は新政府軍の基地となり、新政府軍に軍用金2万両を献上し、長岡城や会津に攻め入りました。
*高田藩ではサメが日常的な食べ物で、今でもそれが続いています。それはどうしてなのでしょうか。1773年に柘植三蔵が佐渡奉行として越後に赴任し、その2年後の1775年に⾧崎奉行に配置転換となります。当時江戸幕府はナマコ、アワビ、フカヒレの干物を中国に輸出していましたが、鎖国中であり、⾧崎の出島経由で行われていました。柘植はサメの水揚げが多い高田藩に勧奨し、高田藩はフカヒレを中国に輸出することになります。1880年に政令が高田藩主となり、積極的な政策を進め、藩財政を安定させ、フカヒレ輸出もその政策の一つとなりました。高田藩は幕府のフカヒレ集荷体制に組み込まれ、海浜の各町村にサメ漁が義務づけられ、水揚げ量が大幅に増えます。その結果、輸出用のフカヒレ以外の部位は高田藩内に大量に流通し、その結果、サメ肉は高田藩内で誰もが食べる一般的な食べ物となりました。
ここで、より俯瞰的に高田藩を見てみましょう。江戸時代の前半の越後高田は藩主が次々と変わり、直轄統治もなされ、兎に角落ち着きませんでした。一方、米沢藩上杉家も外様大名として石高を減らされ、苦境に追いやられていました。そこに登場し、藩の窮状を救ったのが米沢では上杉鷹山(ようざん、1751‐1822)、高田では榊原政令(まさのり、1776‐1861)でした。
米沢藩は幕府から領土を減らされ、藩の財政は厳しく、村人の生活も困窮していました。上杉鷹山は17才で藩主となり、藩の財政を立て直し、人々が豊かになるために様々な事業に取り組みました。財政を豊かにするために、新田を作り、そこに水を引くための水路やため池を数多く作りました。藩と村人が一体となった一大土木事業として「黒井堰(くろいぜき)」と「穴堰(あなぜき)」という水路を作り、米沢盆地北部の水不足を解消し、現在の農地の基礎を作りました。また、新しい産業を起こし、教育にも取り組み、72才で亡くなる頃は、藩の借金をほとんど返し、農村の復興を成し遂げていました。アメリカの元大統領ケネディは最も尊敬する日本人として名前をあげたのが上杉鷹山でした。
細井平洲(へいしゅう)はその鷹山の師です。平洲は人にとって最も大切なことは「譲る」、「相手を思いやる」ことであり、反対に「思い上がり」、「相手のことを考えない自分中心の行い(利己主義)」が最も人の道にはずれたことだと説きました。平洲は藩校を設立する際、校名を「興譲館」と名付けました。興譲とは「譲を興す」と読み、人を人として敬い、譲り合う生き方で、それを徹底すれば争いのない地域社会ができ、そのことによって国が栄えるという利他主義を説いたのです。藩祖謙信の「義」に対し、「善」の重要性を説いたのです。
上越市では今でも上杉謙信は地元の大英雄であり、比類なき人物ということになっています。江戸後半の榊原家の政治は堅実で、高田藩は豊かな藩に生まれ変わっていきます。もっと榊原家は重視されてしかるべきなのですが、謙信に比べると、軽視されてきたように思えてなりません。そこで、戦時の英雄謙信に対し、平時の名君政令(まさのり)を見直してみましょう。
榊原家は徳川四天王の一人榊原康政(やすまさ)に始まり、徳川譜代の家臣の中でも筆頭格です。徳川譜代の名門榊原家の当主であった播磨国姫路藩主の榊原政岑(まさみね)は、江戸吉原遊廓での豪遊などを咎められ、将軍徳川吉宗の政策に反するとして強制隠居させられます。改易は免れたものの、跡を継いだ榊原政純(まさずみ)は懲罰として姫路から高田に移されます。石高は同じ15万石でしたが、実際には陸奥国にある飛び地を含めたもので、額面どおりの収入を得ることはできず、姫路と高田の商業規模などを考えると、藩の収入が減ったことが推測され、財政が大幅に悪化したと思われます。政令は1776(安永5)年に生まれ、1810(文化7)年35歳で家督を継ぎます。藩政に尽くし、藩士への産綬事業推奨、領内赤倉山の温泉を掘削し、赤倉温泉を開き、藩士に果樹の植林を推進するなど、多方面にわたる改革や産業の育成を行い、藩財政を立て直しました。既述のように、幸運にも1809(文化6)年に陸奥国の飛び地分9万石余のうち5万石余を高田城隣接地(頸城郡)に付け替えられ、藩財政安定の基礎となりました。
政令は思い切った人材登用、倹約令の発布、新田開発、用水の開鑿、内職の奨励、牧場の経営、温泉開発まで行い、倹約令なども徹底していて、食事はどんな場合も一汁一菜でした。また、「武士がそろばんをはじいて何が悪い」と藩士たちにも盛んに内職を勧め、それまで隠れて内職をしていた下級藩士たちは、堂々と内職をするようになりました。数年後には藩士たちの作った曲物、竹籠、凧、盆提灯などが高田の特産品となり、信州や関東にまで売り出されました(『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』(磯田道史、2003、新潮新書)を遥かに超えています)。
さて、赤倉温泉は妙高山の北地獄谷に湧き出す温泉を引湯してきています。その温泉の権利は妙高山を御神体と崇める宝蔵院が持っていました。1778(安永7)年に長野県牟礼村の人閥から、1781(天明元)年には地元の庄屋たちから湯治場の開湯の願いが出されました。でも、宝蔵院は俗人が神聖な妙高山に入るのを嫌ったこと、既に開湯していた関温泉から入る冥加金の減ることを嫌ったことから、許可しませんでした。その後、地元の庄屋たちが高田藩の後押しを得て、再度開湯の願いを出し、高田藩が繰り返し交渉を重ねた結果、1814(文化11)年宝蔵院から開湯の許可を得ることができました。源泉の買い入れ金として800両を、関の湯の迷惑料として300両を宝蔵院に支払うことが条件でした。赤倉温泉の工事が始まったのは、さらに2年後の1816(文化13)年です。その年の9月には共同浴場の湯船2箇所が完成し、赤倉温泉がスタートしました。2年間の開発経費3120両、温泉宿などの建設経費2161両で、当時としては大開発事業でした。
政令の財政再建によって高田藩は安定し、天明・天保の飢饉の際には一人の餓死者も出しませんでした。1827年に政令は隠居するのですが、次の政養(まさきよ)、政恒(まさつね)の二代34年間、彼は後見として実権を握り続けるのです。政令は1861年86歳で亡くなります。
*上越市大手町にある榊神社には「榊原康政・3代忠次・11代政令・14代政敬」が顕彰され、祀られています。高田藩について詳しく知りたい人は「公益財団法人旧高田藩和親会」で検索してみて下さい。また、米沢には上杉神社、春日山林泉寺、上杉記念館などがありますので、これらもそれぞれ検索してみましょう。
政令は1776(安永5)年に高田藩二代藩主政敦(まさあつ)と象(きさ)の方との子供として生まれました。政令は山本北山や太田錦城などに師事し、家臣にも学問を推奨したことから、高田藩からは中島嘉春や大久保鷲山等の儒学者が輩出されています。
1809(文化6)年から1811(文化8)年にかけては惣年寄の塚田五郎右衛門に命じて稲荷中江用水の開削が行われ、69町6反の新田が開発されています。1809(文化6)年犀浜が高田藩領になると当地で防風林、防砂林の植林に尽力した藤野条助の事業を継続しています。天保年間(1831~1845)には高橋孫左エ門に許可を出し、蓮華山鉱山の開発を行いましたが、山間僻地で長続きはしなかったようです。赤倉温泉の開発に尽力し、1814(文化11)年に中嶋源八が中心となり、温泉場開設を願い出ます。1816(文化13)年から工事が開始、共同温泉が2カ所設置され、1817(文化14)年に高田の豪商に温泉宿建設を請け負わせ、現在の第三セクターによる事業の形をとることになりました。
最後に赤倉温泉のその後の姿に言及しておきましょう。それは尾崎紅葉の『煙霞療養(えんかりょうよう)』で描かれた赤倉温泉です。『煙霞療養』は1899年7月1日に上野を出発し、赤倉温泉に2泊、新潟市に5泊、佐渡に20日間余り過ごした旅日記で、その目的は持病を治すためでした。新潟に親戚(叔父が大蔵官僚で、当時新潟の税務署長)がいて、紅葉の健康状態を心配して、療養に来るよう再三言われ、決心したのです。当時は、清水トンネルがなく、東京から新潟へは高崎から長野に入り、妙高を経由して直江津に出るしかありませんでした。直江津までが12時間、ここに一泊して、さらに新潟まで行く予定でした。その初日から赤倉滞在の本文を見てみましょう。
…入ってみると大変が有る。出札口に掲示して、水害の為線路毀損に付田口駅以北は不通の事、と飽くまで祟つて居るのであつた。…何とか禍を転じて福と作す工夫は有るまいか、と鉄道案内の一〇二頁と云ふのを見ると、田口駅の項に「赤倉温泉あり」としてある。
…六時三十分に垂として新潟県下越後国中頸城郡一本木新田赤倉鉱泉(字元湯)香嶽楼に着す。
…凡そ己の知る限りに、此ほど山水の勝を占めた温泉場は無いのであるが、又此ほど寒酸の極に陥つた町並を見たことが無い。
この最後の文は紅葉の実感が素直に出ていて、明治の赤倉の姿が浮かび上がってきます。見事な自然の風景をもつ温泉でありながら、これほどまでに貧しく苦しみの極みにあるような町並という好対照の姿を想像するのは、(妙高の人々には)何ともつらい気持ちになります。紅葉は自然とその中の赤倉の両方を直截に対比し、描いてみせたのです。