故郷の二人の画家:彼らと岡倉天心

 妙高で亡くなった岡倉天心は江戸期の絵画を厳しく評価し、蘭斎も周延も高く評価されませんでした。その辺のことを記してみましょう。

 72歳で亡くなった蘭斎の墓は当初浅草本願寺中妙清寺に建てられましたが、関東大震災で壊れます。直系の子孫は既に絶えていて、無縁仏になりかねない所でしたが、新井の人々の募金によって、1930(昭和5)年に移転され、妙高市東本願寺新井別院に改葬されました。息子の蘭園も医師であると共に父の画風を受け継いだ絵師でしたが、数え37歳で早世しました。

 豊島区にある日蓮宗の本立寺は1618(元和4)年善了院日詠によって開山されました。姫路藩藩主榊原政邦の生母延寿院の帰依があり、以降榊原家の奥方の菩提寺となります。境内には吉原の遊女六代目高尾太夫の墓があります。高尾太夫姫路藩主榊原政岑(まさみね)に溺愛され、1800両で身請けされました。でも、奢侈を禁止していた当時の将軍徳川吉宗の怒りを買い、政岑は強制隠居、榊原家も越後国高田藩に転封の処分を受けます。政岑と高尾太夫は転封先の高田に移り住みますが、まもなく政岑は死去。高尾太夫は出家し、江戸に出て、本立寺で余生を送ります。また、本立寺には「神木隊戊辰戦死之碑」があります。神木隊は高田藩から脱藩した幕府派の旧藩士によって構成された部隊で、上野戦争箱館戦争で戦いましたが、これは既に述べました。この慰霊碑には、戦死した26名の隊員の氏名が刻まれています。

*1912(大正元)年9月29日、明治最後の浮世絵師と称された楊洲周延は胃がんで亡くなる。享年75。墓所高田藩中屋敷が目の前に位置した無縁坂の講安寺であったが、後に豊島区雑司が谷雑司が谷霊園に移された。死の2か月後、池袋の本立寺に上記の「神木隊戊辰戦争之碑」が建立されるのだが、その建設者名の筆頭には周延の本名である橋本直義と刻まれている。

 蘭斎や周延が故郷でさえ目立たないのはどうしてなのか。その理由を探ってみましょう。純粋な「日本画」はなく、混合や習合が日本画の特徴だというのは日本の歴史を知っている人にはほぼ自明のことです。明治期に洋画が発展するなかで生まれたのが「日本画」という言葉、概念です。多くは岩絵具や和紙、絵絹などの伝統的材料や技法が使われている絵画を指し、彩色画と水墨画に分けられます。より厳密には、明治維新から第二次世界大戦終結までの77年間に、毛筆画や肉筆画など旧来の日本の伝統的な技法や様式で描かれた絵画のことです。

 日本画は明治以降に日本に入ってきた西洋画に対して作られた概念です。それ以前は日本画の概念はなく、各流派(狩野派、円山・四条派、大和絵など)に別れていました。現在の日本画は、伝統的な日本の絵画を総称する意味と、伝統的な日本の絵画技法を継承しつつ、西洋画法を取り入れた新しい絵画を総称する意味とがあります。日本画の「日本」は混合したものと、純粋なものの両方を曖昧な仕方で含んでいて、その曖昧な混合こそが日本文化の根幹にあったことが理解できます。

 およそこのような日本画の概念が今でも通用しているのでしょうが、それでは明治時代以前の絵画も日本画なのでしょうか。奈良時代以降、日本の絵画や彫刻は仏教の影響が圧倒的で、主に中国からの影響が極めて強いものでした。ですから、純粋に日本起源のものではなく、中国から移入され、日本で展開された文化、芸術であり、日本独自の絵画、彫刻ではありませんでした。江戸時代までは主に中国から、明治以降は西欧から移入された美術が基礎となって、日本の美術として花開いたものです。

 そのような中で、岡倉天心狩野派の変革者として狩野芳崖と橋本雅邦を高く評価し、河鍋暁斎(かわなべきょうさい)は徳川時代狩野派に過ぎないと評価しませんでした。そして、天心流の「狩野芳崖、橋本雅邦」、「文部省美術展覧会」(「文展」、「日展」)が基準、模範になり、それに逸脱する日本画は排斥されます。これは俳諧の世界で、蕉風俳諧の「高悟帰俗」、「不易流行」から逸脱する談林俳諧が軽視されたことに似ています。

 では、浮世絵と日本画の関係はどうなのでしょうか。西洋の画家たちも取り入れた浮世絵の大胆な構図やデザインは近代日本画には見られない独特のものです。特に、浮世絵を代表する歌麿北斎、広重、国芳らの影響は河鍋暁斎らには明瞭に見られるものの、明治以降の日本画には見られません。

 天心の「アジアは一つなり」の国粋的な思想は横に置き、日本画に集中してみると、その特徴は音楽や他の芸術にも共通して、日本の混血的、習合的な特徴が遥か昔から存在していたことは明らかです。仏教はその典型で、結局、混血性や習合性は日本の文化そのものの特徴なのです。ある人はそれを日本画クレオールだと言います。クレオールとは、本来は植民地に生まれたネイティブ以外の白人移民を指しましたが、やがては混血、更には白人の血が混じった黒人を指すのが一般的となりました。中国からの強い影響によって古代から変化を遂げてきた近世までの日本絵画は、中国絵画に対する混血的なクレオール絵画でした。そして、19世紀後半、近代化=西洋化という文明開化の波の中で、西洋絵画の圧倒的な影響を受けた日本絵画は、「日本画」と「洋画」という二つのクレオール絵画を生み出したのです。つまり、日本画の前身である日本絵画が西洋画と出会い、フェノロサ岡倉天心らの努力によって、明治維新以降、近代ナショナリズムの勃興と共に「日本画」として成立したのです。国家主義を揺籃とした明治期、皇国感情の中で成熟を迎えた大正期から昭和初期、そして、第二次大戦の終結と近代天皇制の終焉と共に、その体制下で同質化された国民に支えられてきた日本画は終焉を迎えたのです。

 ところが、戦後、上記のような日本画が滅亡するという逆説的な危機感が高まり、1960年代のいざなぎ景気、1980年代のバブル景気に乗じる形で、国民絵画としての日本画が存続し、平山郁夫東山魁夷加山又造らを頂点として日本経済の繁栄と共に日本画の繁栄を謳歌したのです。

妙高市赤倉温泉東京美術学校長であった岡倉天心の終焉の地。天心は赤倉を芸術家が互いに集まり、研究制作する場にしようとする構想を持っていました。それを受けて、今から20年以上前に、東京藝術大学の当時の平山郁夫学長と地元の発案によって「妙高 夏の芸術学校」が発足(1995)。

 しかし、こうした国内向けの日本画は、新たな日本社会、つまり、IT化、グローバル化していく社会構造の変化の中で、存在の場を失っていきます。現代のフェノロサ岡倉天心が現れない今の状況が続けば、国内向け国民絵画としての日本画はグローバルな社会の変化や現実世界から取り残され、自らの居場所を失い、「日本画の伝統遺物化」ということにならざるを得ないでしょう。

 そうした状況の中で、1990年代に入ると、このような状況を乗り越え、村上隆千住博のように戦略的に日本画を描く作家たちが現れます。彼らは日本ではなくニューヨークなど海外を拠点として活動してきました。彼らにとっての日本画は世界市場で通用することを目指した現代絵画そのものです。皮肉なことに、国際的にも通用するような国の絵画をつくる狙いで「日本画」が考案されたにもかかわらず、日本らしさを持つ絵画として国際的な評価を得たのは葛飾北斎河鍋暁斎であり、今日では日本のマンガやアニメです。

 純粋な日本画、彫刻などは実は存在せず、日本文化そのものが混合的、習合的だと述べてきましたが、それが端的に表れているのが神仏習合の日本宗教です。仏教と神道の習合は、真に日本的な特徴が混淆性、混合性にあることを見事に示しています。この特徴を巡って森蘭斎、楊洲周延と岡倉天心の彼らへの評価はその一例になっているのです。