地域振興策の一つとしてバルビゾン村構想があった2007年頃、岡倉天心と河鍋暁斎の子孫の対談が妙高で行われました。この構想はその後消えてしまうのですが、天心と暁斎の組み合わせには二人のお雇い外国人が関与していて、彼らを抜きにしては明治を語ることができません。その二人とは、ジョサイア・コンドルとアーネスト・フランシスコ・フェノロサです。
人の出会いは偶然に左右されるものですが、出会ったときの年齢差もその一つです。圧倒的に年上の兄貴が暁斎(1831-1889)、ほぼ同じコンドル(1852-1920)とフェノロサ(1853-1908)、そして最も若造が天心(1862-1913)です。私には、暁斎とコンドル、フェノロサと天心の組み合わせの決定的な違いの一つが年齢差だと思われるのです。
ジョサイア・コンドルはイギリスの建築家。オックスブリッジ出身ではなく、たたき上げの建築家。彼は工部大学校(現東大工学部)の建築学教授として来日します(1887)。明治政府の建物設計を手がけ、東京駅を設計した辰野金吾は彼の最初の教え子です。コンドルは河鍋暁斎に師事(1881)して日本画を学び、日本舞踊、華道、落語にまで手を伸ばします。1883年設計を担当した鹿鳴館が、1891年にはニコライ堂が竣工します。1893年芸妓前波くめと結婚。1894年三菱一号館が竣工。今でもニコライ堂の鐘の音を聞き、三菱一号館のレプリカを見て、修復された辰野金吾の東京駅を歩くなら、コンドルの仕事を身近に知り、実感できます。
そのコンドルが『河鍋暁斎』(ジョサイア・コンドル著、山口静一訳、岩波文庫、2006)を著します。これは河鍋暁斎の人生、作品、またその製作技法についての本で、日本が生んだ偉大で異色の画家河鍋暁斎について弟子のジョサイア・コンドルが著したものです。これだけでも暁斎の実力がしっかり伝わってきます。
アーネスト・フランシスコ・フェノロサの専門は政治学や哲学で、美術が専門ではありませんでした。コンドルと違って、フェノロサは名門ハーバード大学の出身で、技術者ではありません。来日後は日本美術に深い関心を寄せ、岡倉天心を助手にして古寺の美術品を精力的に調査しました。来日は1878年で、コンドルが来た翌年です。東京大学では哲学、政治学、理財学(経済学)などを講じました。
フェノロサが美術に公式に関わるのは1882年のことで、展覧会での狩野芳崖の作品に注目し、1884年には文部省図画調査会委員に任命され、岡倉天心らを同行させ、近畿地方の古社寺宝物調査を行います。法隆寺夢殿の秘仏・救世観音像を開扉させた有名なエピソードはこの時のもので、日本美術開帳のシンボルとなりました。
岡倉天心と河鍋暁斎はそれぞれ美術思想家と職人絵師と分類され、近代化された明治期には考える人が天心、つくる人が暁斎でした。私自身が考えることを生業にしてきたのですが、近年考えることの無力さを痛感しています。そのためか、つくることへの老いの憧れが疼いています。天心の終焉の地は赤倉、それが死に場所ではなく活躍の場所であったらと悔やんでも詮無きことで、よく見る東京駅や三菱一号館にジョサイア・コンドルの影を見て、さらに人気の高くなった暁斎の絵を見ると、フェノロサや天心を身近に感じることができないもどかしさは「考える」ことの当然の結果だと観念するしかないのかと溜息をつくのです。「つくる」人はつくったものを長く残すことができます。「考える」人は「考え」が心の中にしかないようにものの形で正確に残すことはできず、せいぜい言葉や画像を使って間接的に表現するのが関の山です。唯一正確に残せるとなれば数学化された理論くらいしかありません。河鍋暁斎とジョサイア・コンドルの師弟は「つくる」ことによって固く結ばれ、アーネスト・フェノロサと岡倉天心の師弟は「考える」ことで柔らかく結ばれていました。ニコライ堂の鐘の音のような具体的なものがフェノロサと天心にはありません。それでも天心の著作、天心の弟子である横山大観らの日本画家たちは多くの日本人の心に今でも強く焼きついています。
3-3:森蘭斎
森蘭斎について語る前に、私の大学での経験について話しておきます。私がいた文学部哲学科には哲学専攻、倫理学専攻、美学美術史学専攻があり、互いの交流は緊密で、それは教員も同様でした。まだ私が助手の頃、美学美術史の先輩教員には大昔の仏教美術や西洋の古典美術の研究者が多く、江戸時代の美術研究者は一人しかおらず、浮世絵は高橋誠一郎という有名なコレクターが経済学部にいても、彼はあくまでコレクターでしかなく、今は誰もが知る伊藤若冲、曾我蕭白、長沢芦雪、そして森蘭斎などはまるで研究されていませんでした。江戸時代の絵画は浮世絵以外誰も知らない空白地域のようになっていました。江戸期の先輩研究者は私と飲みながら、その状況に愚痴をこぼしていたのをよく憶えています。日本美術史の妙にいびつな研究の実態を横から見ていた私には当時その理由など考えることもなかったのですが、それがいつの間にか多くの江戸の画家の作品が見直され、森蘭斎の唐画と呼ばれる分野もその一つでした。今の日本美術史の研究状況を見ると、大学に入り、20年程は旧来の日本美術史にどっぷり浸かっていた私には正に隔世の感があります。この大きな転換の中に対立するかのように位置し、しかも妙高に関わる二人が森蘭斎と岡倉天心なのです。
天心やフェノロサらが高く評価したのは、琳派の画家、狩野芳崖らをはじめとする日本美術院の画家、そして円山応挙らでした。天心らは江戸狩野派の絵画の大半、大坂画壇の絵画のほとんど、さらに幕末明治期の文人画のほとんどを評価しませんでした。天心によって確立される日本近世近代絵画史は近世絵画史と近代絵画史とを分断し、その結果、江戸時代と明治以降の美術作品の連続性を無視することになりました。ですから、江戸絵画史を専門とする研究者は近代絵画を扱わず、近代絵画史の研究者は江戸の絵画を扱わない、という専門分野の棲み分けがなされてきたのです。
そして、これは私が学生時代に経験し、感じたことに見事に合致しているのです。近代絵画と江戸絵画は別々の美術史家が別々に扱い、その間の交流はほぼなく、上記の先輩の愚痴に繋がっていたのです。また、私自身10歳頃に祖父が森蘭斎の絵について話していたのを憶えていても、学校で森蘭斎について聞いたことは一度もありませんでした。
まずは、森蘭斎の略歴を見ておきましょう。「越後国頸城郡新井村(現妙高市)に生まれた森蘭斎(1740-1801)は画才に恵まれ、24歳頃に長崎に遊学、医学を学ぶとともに、沈南蘋(しんなんぴん)の高弟熊代熊斐(くましろゆうひ)に入門し、画才を認められ、師の娘と結婚。熊斐が61歳で病没し、蘭斎は師の遺志を継いで南蘋派の画風を普及させるため、35歳の時に10年に及ぶ長崎滞在を終え、妻子と共に大坂に移住。大坂では、木村蒹葭堂(きむらけんかどう)ら多くの文人たちと交流し、彼らの協力を得て『蘭斎画譜』8巻を刊行。この書は蘭竹・花鳥の粉本(中国や日本の古画や名画を模写した絵画資料)として、画を志す人たちのよい手引書となりました。38歳頃に帰郷しましたが、その後も奥州、信州、上州など各地を遍歴、54歳で江戸に出て日本橋に居を構え、ここを終生の地とします。江戸では医業を営みつつ、さらに写実に徹した作風を押し進め、加賀藩お抱え絵師もつとめました。『蘭斎画譜』の後編を出版する準備も進めていましたが、享和元年、出版を果たせないまま62歳で死去。その後、信州の門人掛玄斎が中心となって『蘭斎画譜後編』4巻が刊行されました。
京都では南蘋派の唐画が流行し、特異な画家として近年注目を集めた伊藤若冲や曾我蕭白、さらに、円山応挙、長沢芦雪らがそこから独自の画風を築きます。また、洋風画の司馬江漢も俳人・文人画家として知られる与謝蕪村も南蘋風の絵を数多く描いています。1716年若冲が京都で、蕪村が大阪で生まれます。その同じ年に尾形光琳が亡くなり、時代が大きく変わり出します。そして、将軍吉宗が洋書の輸入を緩和し、禅宗の黄檗宗や最新の中国の画譜が入ってきます。若冲は狩野派の絵を学び、蕪村は江戸で俳諧に親しみます。40歳で隠居し、絵に専念した若冲、40歳を越えて定住し、花鳥画を学んだ蕪村は共に京都で活躍します。森蘭斎は師が没すると、大坂に出て医者となりながら、画を通じて著名な文人たちと交友。『蘭斎画譜』では熊斐から受け継いだ画法の伝授を伝え、熊斐の小伝もそこに掲載しています。