ふるさとと天心と蘭斎と…

1習合としての日本画

 純粋な「日本画」はなく、混合や習合が日本画の特徴だというのは日本の歴史を知っている人にはほぼ自明のことです。明治期に洋画が発展するなかで生まれたのが「日本画」という言葉、概念です。多くは岩絵具や和紙、絵絹などの伝統的材料や技法が使われている絵画を指し、彩色画と水墨画に分けられます。より厳密には、明治維新から第二次世界大戦終結までの77年間において、油彩に依らず、毛筆画や肉筆画など旧来の日本の伝統的な技法や様式の上に育てられた絵画のことです。

 日本画は明治以降に日本に入ってきた西洋画に対して作られた概念です。それ以前は日本画の概念はなく、様式の異なる各流派(狩野派、円山・四条派、大和絵など)に別れていました。現在の日本画は、伝統的な日本の絵画を総称する意味と、伝統的な日本の絵画技法を継承しつつ、西洋画法を取り入れた新しい絵画を総称する意味とがあります。日本画の「日本」は混合したものと、純粋なものの両方を曖昧な仕方で含んでいて、その曖昧な混合こそが日本文化の根幹にあったことが理解できます。

 およそこのような日本画の概念が今でも通用しているのでしょうが、それでは明治時代以前の絵画も日本画なのでしょうか。奈良時代以降、日本の絵画や彫刻は仏教の影響が圧倒的で、主に中国からの影響の極めて強いものでした。ですから、純粋に日本起源のものではなく、中国から移入され、日本で展開された文化、芸術であり、日本独自の絵画、彫刻ではありませんでした。江戸時代までは主に中国から、明治以降は西欧から移入された美術が基礎となって、日本の美術として花開いたものです。

 そのような中で、岡倉天心狩野派の変革者として狩野芳崖と橋本雅邦を高く評価し、河鍋暁斎(かわなべきょうさい)は徳川時代狩野派に過ぎないと評価しませんでした。そして、天心流の「狩野芳崖、橋本雅邦」、「文部省美術展覧会」(「文展」、「日展」)が基準、模範になり、それに逸脱する日本画は排斥されます。これは俳諧の世界で、蕉風俳諧の「高悟帰俗」、「不易流行」から逸脱する談林俳諧が無視されたことに似ています。

 では、浮世絵と日本画の関係はどうなのでしょうか。西洋の画家たちも取り入れた浮世絵の大胆な構図やデザインは近代日本画には見られない独特のものです。特に、浮世絵を代表する歌麿北斎、広重、国芳らの影響は河鍋暁斎らには明瞭に見られるものの、明治以降の日本画には見られません。

 天心の「アジアは一つなり」の国粋的な思想は横に置き、日本画に集中してみると、その特徴は音楽や他の芸術にも共通して、日本の混血的、習合的な特徴が遥か昔から存在していたことは明らかです。仏教はその典型で、結局、混血性や習合性は日本の文化そのものの特徴なのです。ある人はそれを日本画クレオールだと言います。クレオールとは、本来は植民地に生まれたネイティブ以外の白人移民を指しましたが、やがては混血、更には白人の血が混じった黒人を指すのが一般的となりました。中国からの強い影響によって古代から変化を遂げてきた近世までの日本絵画は、中国絵画に対する混血的なクレオール絵画でした。そして、19世紀後半、近代化=西洋化という文明開化の波の中で、西洋絵画の圧倒的な影響を受けた日本絵画は、「日本画」と「洋画」という二つのクレオール絵画を生み出したのです。つまり、日本画の前身である日本絵画が西洋画と出会い、フェノロサ岡倉天心らの努力によって、明治維新以降、近代ナショナリズムの勃興と共に「日本画」として成立したのです。国家主義を揺籃とした明治期、皇国感情の中で成熟を迎えた大正期から昭和初期、そして、第二次大戦の終結と近代天皇制の終焉と共に、その体制下で同質化された国民に支えられてきた日本画は終焉を迎えたのです。

 ところが、戦後、上記のような日本画が滅亡するという逆説的な危機感が高まり、1960年代のいざなぎ景気、1980年代のバブル景気に乗じる形で、国民絵画としての日本画が存続し、平山郁夫東山魁夷加山又造らを頂点として日本経済の繁栄と共に日本画の繁栄を謳歌したのです。

妙高市赤倉温泉東京美術学校長であった岡倉天心の終焉の地。天心は赤倉を芸術家が互いに集まり、研究制作する場にしようとする構想を持っていました。それを受けて、今から20年以上前に、東京藝術大学の当時の平山郁夫学長と地元の発案によって「妙高 夏の芸術学校」が発足(1995)。

 しかし、こうした国内向けの日本画は、新たな日本社会、つまり、IT化、グローバル化していく社会構造の変化の中で、存在の場を失っていきます。現代のフェノロサ岡倉天心が現れない今の状況が続けば、国内向け国民絵画としての日本画はグローバルな社会の変化や現実世界から取り残され、自らの居場所を失い、「日本画の伝統遺物化」ということにならざるを得ないでしょう。

 そうした状況の中で、1990年代に入ると、このような状況を乗り越え、村上隆千住博のように戦略的に日本画を描く作家たちが現れます。彼らは日本ではなくニューヨークなど海外を拠点として活動してきました。彼らにとっての日本画は世界市場で通用することを目指した現代絵画そのものです。皮肉なことに、国際的にも通用するような国の絵画をつくる狙いで「日本画」が考案されたにもかかわらず、日本らしさを持つ絵画として国際的な評価を得たのは葛飾北斎河鍋暁斎であり、今日では日本のマンガやアニメなのです。その意味では、森蘭斎が今後国際的評価を得ても何ら不思議はないのです。

 

2ハイカラな森蘭斎と、国粋的な岡倉天心

 純粋な日本画、彫刻などは実は存在せず、日本文化そのものが混合的、習合的だと述べてきましたが、それが端的に表れているのが神仏習合の日本宗教です。仏教と神道の習合は、真に日本的な特徴が混淆性、混合性にあることを見事に示しています。この特徴を巡って森蘭斎と岡倉天心は好対照の例になっています。

 蘭斎と天心の二人はともに妙高市に深く結びついています。今風に言えば、天心は赤倉に移住した人、蘭斎は新井に生まれた人です。天心は妙高の多くの人に明治の日本美術を救った大人物に映り、蘭斎は妙高市民にさえそれ程知られず、骨董趣味の老人が関心を寄せる画家というのが通り相場になってきました。これは誤った過去の風評に過ぎません。そこで、二人に関する肝心な事実を私なりに幾つか指摘してみたいと思います。

 1731(享保16)年長崎に一人の中国人画家がやってきます。彼の名は沈南蘋(しんなんぴん、1682~1760?)。彼の花鳥画はその精緻な描写と華麗な彩色によって人々を惹きつけ、その後の日本絵画に非常に大きな影響を与えることになります。直弟子熊斐(ゆうひ、1712~1772)、その娘婿森蘭斎(1740~1801)を経て、長崎から京都、大坂へ、そして江戸へと南蘋の画風は広まり、「長崎派」と呼ばれました。本草学、博物学への関心が高まり、南蘋の写実的な自然描写が人々を惹きつけたのです。

 その影響は南蘋の画風を真似た画家に限りません。特異な画家として近年注目を集めている伊藤若冲(いとうじゃくちゅう、1716~1800)も南蘋を学び、独自の画風を築きました。写実的で装飾的な画風によって近代日本画を生み出した円山応挙(まるやまおうきょ)も若い頃に南蘋の画を学びました。司馬江漢(しばこうかん)も俳人文人画家として知られる与謝蕪村(よさぶそん)も南蘋風の絵を数多く描いています。

 1716年若冲が京都で、蕪村が大阪で生まれます。その同じ年に尾形光琳(おがたこうりん)が亡くなり、時代が大きく変わり出します。そして、将軍徳川吉宗が洋書の輸入を緩和し、黄檗宗(おうばくしゅう)や最新の中国の画譜が入ってきます。若冲狩野派の絵を学び、 蕪村は江戸で俳諧に親しみます。40歳で隠居し、絵に専念した若冲、40歳を越えて定住し、花鳥画を学んだ蕪村は共に京都で活躍します。森蘭斎は師が没すると、長崎から大坂に出て、医者となりながら、画を通じて著名な文人と交友。『蘭斎画譜』では熊斐から受けた画法の伝授課程を伝え、熊斐の小伝を掲載しています。そして、彼は江戸に移り住み、幕府の儒官林述斎(はやしじゅっさい)や宇都宮藩藩主戸田忠翰(とだただなか)らと交友。とりわけ戸田忠翰とは画の共作を行うほど親しく交わりました。

*関口雪翁(せきぐちせつおう、1753-1834)は越後十日町に生まれ、江戸に出て学び、津山藩儒(藩主に仕える儒学者)となります。書画に優れ、雪竹を描いては日本三竹の一人です。彼にも長崎派の影響を見てとれます。同じ越後出身の蘭斎と親交があったかどうか不明ですが、共通の友人はいた筈です。

*「森蘭斎展」が少し前に妙高市で開催されました。会場は「道の駅あらいくびき野情報館ギャラリー」で、9月15日(日)~23日(月・休)10:00~16:00。

*浮世絵を含めた近世美術史は明治以降の美術史と隔絶されてきました。これに対して、平成 24 年に刊行された『森蘭斎画集』(森蘭斎画集編集委員会編、森蘭斎顕彰会、2012)は大きな意味をもっています。

 花鳥画の「花鳥」の主題は、単に花と鳥とにとどまらず、花は植物、鳥は動物を代表しています(これは「雪月花」も同じ)。花鳥は自然の縮図、自然の中の生命の象徴なのです。享保の改革で有名な八代将軍吉宗は実用的、実証的な学問に強い関心を持っていました。彼は洋書の輸入制限を緩和し、キリスト教関連以外の洋書の輸入を許し、そのことによって蘭学が興ります。吉宗の好奇心は絵画にも向かい、享保 7 年長崎奉行に唐画、紅毛絵の輸入を命じ、その結果、オランダからは油彩画が入ってきます。中国絵画は唐画と呼ばれ、享保16年中国人画家沈南頻が来日し、享保18年に同じ船で帰国するまで長崎に滞在します。唐画には現在でいう南頻派、文人画(南画)、円山四条派等の絵が含まれます。森蘭斎が属した南頻派の主な画題は花鳥であり、色鮮やかな花鳥画が特徴でした。

 蘭斎は長崎で医術と唐画を学び、大坂と江戸で画家、文人として活躍します。『蘭斎画譜』は貴重な美術教科書でもあり、多才な能力を発揮しました。科学と美術、文学とを駆使して、唐画の普及に尽力したことがわかります。彼が当時の最新の知識と芸術を啓蒙したことが窺えます。

 さて、明治15年近代日本画の育成に尽力したフェノロサは美術講演の中で、文人画(南画、唐画)を批判しました。新聞紙上でそれが「つくね芋山水」と否定的に表現され、文人画を非難する傾向が生まれました。フェノロサ、天心のこのような批判以後、文人画、唐画は近代絵画発展を妨げるものというイメージが植えつけられ、一時の隆盛は失われます。その隆盛を生み出した出発点にいる一人が森蘭斎でした。蘭斎の絵師としての活動は大坂で始まります。既述のように、蘭斎は長崎で熊斐を介して沈南蘋の画風を学びました。蘭斎は当時多くの画家たちにとって垂涎の的であった長崎遊学の後、大坂にやって来て、弟子たちを抱え、少なくとも安永2年から寛政元年にかけての14年間大坂で暮らし、南蘋派絵画の普及に努めたのです。蘭斎は南蘋の唯一の直弟子である熊斐の娘婿ですから、熊斐没後に大坂に出た蘭斎の制作活動は、正統派の南蘋派絵画の普及であり、南蘋の直系である蘭斎の大阪での活動は重要な意義を持っていました。その成果の一つが既述の『蘭斎画譜』です。蘭斎の大坂での活動を軽視してきた南蘋派研究は、そこから派生する文人画への天心らの厳しい評価によってとても偏ったものになっていました。

 天心やフェノロサらが高く評価したのは、琳派の画家、狩野芳崖(かのうほうがい)らをはじめとする日本美術院の画家、そして円山応挙らでした。彼らは江戸狩野派の絵画の大半、大坂画壇の絵画のほとんどを、さらに幕末明治期の文人画のほとんどを評価しませんでした。天心によって確立される日本近世近代絵画史は近世絵画史と近代絵画史とを分断し、その結果、江戸時代と明治以降の美術作品の連続性を無視することになりました。ですから、江戸絵画史を専門とする研究者は、近代絵画を扱わず、近代絵画史の研究者は、江戸の絵画を扱わない、という専門分野の棲み分けがなされたのです。これは私が学生時代に経験し、感じたことに合致しています。近代絵画と江戸の絵画は別々の美術史家が別々に扱い、その間の交流はほぼありませんでした。

 明治38年に天心によって執筆された草稿「浮世絵概説」は、日本人が初めて浮世絵を美術史的に体系化しようとしたもので、浮世絵の定義から始まり、16~19 世紀の浮世絵史を略述しています。この前年初めてボストン美術館に勤務した天心には、3万点以上の浮世絵の鑑定と目録作成が急務となっていました。そのために作成された「浮世絵概説」は未定稿ですが、浮世絵の定義に始まり、時代を三期に分けて代表的絵師とそれを取り巻く江戸の社会世相や文化にも言及しながら浮世絵史の体系化が試みられています。三期とは初期 の菱川師宣(ひしかわもろのぶ)、中期の喜多川歌麿(きたがわうたまろ)や歌川豊国(うたがわとよくに)、そして文化以降の浮世絵衰亡期です。葛飾北斎(かつしかほくさい)については「彼レの画は最早江戸通人の画にアラサルなり」と浮世絵の枠から一歩抜きんでた絵師として高く評価しています。天心は著書『東洋の理想』で「浮世絵は色彩と描画においては熟練の域に達したが、日本芸術の基礎である理想性を欠いている」と述べていて、北斎を別格としても、浮世絵芸術を評価していないことがわかります。天心は浮世絵の版画技術と美しさは認めたものの、その享楽性を好まず、日本美術に高い精神性と理想を求めました。『東洋の理想(The Ideals of the East with Special Reference to the Art of Japan)』(原書英文、講談社学術文庫)では次のように述べています。「かれら(江戸庶民)の唯一の表現であった浮世絵は、色彩と描画においては熟練の域に達したが、日本芸術の基礎である理想性を欠いている。歌麿、俊満、清信、春信、清長、豊国、北斎などの、活気と変通に富むあの魅力的な色刷の木版画は、奈良時代以来連綿としてその進化をつづけてきている日本芸術の発展の主幹の経路からは外れているものである。」

 天心が蘭斎の画をどのように評価するか、天心の美術評論に対して蘭斎はどのように反応するのか、推測はできますが、妙高市民なら是非彼らの直接の意見を知ってみたいのではないでしょうか。今となっては無理だとしても、二人の意見をより確実に推測できるならば、故郷に縁の深い二人について今以上に知ることができるのは確かです。

 2007年は地域振興策の一つとしてバルビゾン村構想があった頃で、岡倉天心河鍋暁斎の子孫の対談が妙高で行われました。この構想はその後すっかり消えてしまうのですが、天心と暁斎の組み合わせには二人のお雇い外国人が関与していて、これら二人を抜きにしては彼らの明治を語ることができないのです。その二人とはジョサイア・コンドルとアーネスト・フランシスコ・フェノロサです。

 コンドルは『河鍋暁斎』(ジョサイア・コンドル著、山口静一訳、岩波文庫、2006)を著しています。これは河鍋暁斎の人生、作品、またその製作技法について書かれた本。日本が生んだ偉大で異色の画家河鍋暁斎について弟子のジョサイア・コンドルが書いたものです。暁斎が自作の絵画を標準より高額の値段で博覧会に出品すると、ある審査官が苦言を呈しました。それに対し、暁斎は「この作品は長年の研鑚修行の成果であり、この値段はそのごく一部に過ぎない。」と反論。暁斎の隠居後の作品は雄渾かつ独創的な構想力に溢れ、それ以前の自身の作品を凌駕しています。隠居後も「画人としての技倆はいまだ最終的完成の域には達していない」と絶えず口にしていました。

 岡倉天心河鍋暁斎はそれぞれ思想家と職人絵師と識別でき、近代化された明治期には考える人が天心、つくる人が暁斎ということになります。天心の終焉の地は妙高妙高が彼の死に場所ではなく活躍の場所であったらと悔やんでも詮無きことで、よく見る東京駅や三菱一号館ジョサイア・コンドルの影を見て、さらに人気の高くなった暁斎の絵を見ると、フェノロサや天心を身近に感じることができないもどかしさは「考える」ことの当然の結果だと観念するしかないのかと溜息をつくのです。

 「つくる」人はつくったものを残すことができます。「考える」人は「考え」が心の中にしかなく、ものの形で正確に残すことはできず、せいぜい言葉や画像を使って間接的に表現するのが関の山です。唯一正確に残せるとなれば、数学化された理論くらいしかありません。河鍋暁斎ジョサイア・コンドルの師弟は「つくる」ことによって固く結ばれ、アーネスト・フェノロサ岡倉天心の師弟は「考える」ことで柔らかく結ばれていました。それでも天心の著作、天心の弟子である横山大観らの日本画家たちは多くの日本人の心に今でも強く焼きついています。一方、蘭斎は美術と医術で、「つくる」と「考える」の両輪を使って活躍したハイカ文人でした。

 

3フェノロサとコンドル

 若きフェノロサがもっと若い岡倉天心を従えて精力的に日本美術の再発掘をするのと同じように、同年輩のコンドルは狩野派の絵師にして浮世絵や戯画までこなす河鍋暁斎の弟子になり、日本文化の虜になります。お雇い外国人二人の来日は共に25歳。青年として来日してからの日本での研究が二人を成長させていきます。

 明治政府は積極的にアメリカ、ヨーロッパに働きかけ、様々な分野の専門家を日本に招き、「近代化」を図りました。その結果、19世紀の終わりまでにイギリスから6,177人、アメリカから2,764人、ドイツから913人、フランスから619人、イタリアから45人の教師や技術者が来日しました。彼らは本格的な開拓が必要だった北海道はもちろん、日本全国で献身的に日本に尽くし、多くの分野で日本人に影響を与えました。

 さて、アーネスト・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa)は1884年(31歳)政府の宝物調査団に任命され、文部省職員の岡倉天心と奈良、京都の古社寺を歴訪します。この調査の最大の目的は法隆寺夢殿の開扉。内部には創建時から「救世(くせ)観音像」があるとされ、誰も見ることができない秘仏中の秘仏でした。救世観音と出会った翌年、フェノロサは滋賀の三井寺園城寺)で受戒、諦信の法名を授かり、仏教徒になります。

 東京藝術大学美術学部の前身は1887(明治20)年に開校された東京美術学校明治維新以降、日本では急激な欧米文化の流入が起き、日本の伝統的な美術や工芸は急速に衰退し、風前の灯火といった状況でした。そこで、設立されたのが日本画や日本工芸を教授し、その技術を受け継いでいく国立の美術学校、東京美術学校でした。その設立のための運動を主導した人物が当時東京大学の教授として来日していたアーネスト・フェノロサ、もう一人はフェノロサの弟子で、後に東京美術学校で校長を勤めた岡倉天心

 フェノロサは1853年にマサチューセッツ州セーラムで、スペインから移民した音楽家の父とその教え子のイギリス系アメリカ人の母のもとに生まれました。ハーヴァード大学で哲学を専攻し、大学および大学院を優秀な成績で卒業。さらに、当時新設されたボストン美術館付属の絵画学校で、油絵や絵画理論を学びました。東京大学では政治学、理財学(経済学)、哲学などの授業を担当し、日本美術に関心を示し、日本画の蒐集と研究を開始。次第に日本美術の世界に没頭するようになり、来日した翌年には狩野派の総帥狩野永悳(えいとく)について、日本と中国の絵画の鑑定法を学び始めました。そんな折、フェノロサ東京大学で一人の学生と出会います。それが岡倉天心。天心は1877(明治10)年、東京大学開校時に森鴎外らとともに文学部一期生となり、大学二年生の時に教授として来日したフェノロサと出会います。この出会いが天心の人生を決め、同時にフェノロサの人生と近代以降の日本美術史をも変貌させることになります。語学に長けた天心とフェノロサは自然と親睦を深め、次第に天心はフェノロサの右腕となり、通訳兼助手の役割を担うようになります。天心は東京大学卒業後、文部省に入省。この頃、フェノロサは来日以来取り組んできた日本美術の研究を通じて、西洋美術に圧迫されて衰退の一途を辿る日本美術の状況を憂い、日本美術再興を訴え、美術研究家としての活動を活発に行うようになります。1882(明治15)年には、日本の伝統美術保存を目的に、明治政府の官僚を筆頭メンバーとして結成された美術団体「龍池会」で講演を行い、日本で初めて「日本画(Japanese painting)」という言葉を用いて、「油絵(oil painting)」と比較して、日本画の優位な点を論じ、西洋文化に傾倒していた日本美術界に警鐘を鳴らしました。フェノロサはこの講演によって一躍有名になります。後に東京美術学校日本画教育の礎を築いた狩野芳崖、橋本雅邦らも加わり、この団体の活動が東京美術学校創立の母体となりました。

 でも、東京美術学校が開校した翌年、フェノロサの文部省との契約期間が終了。フェノロサ東京美術学校と帝国博物館を退職し、1889 (明治23)年、12年間に及ぶ日本での生活を終え、アメリカに帰国。この年、政府はフェノロサに勲三等瑞宝章を贈っています。日本を離れたフェノロサボストン美術館に新設された東洋部の初代部長に就任。このボストン美術館フェノロサが日本滞在中に蒐集した日本画の他、エドワード・モース、ウィリアム・ビゲローのコレクションも寄託され、日本の国外では随一の日本美術コレクションを収蔵していました。フェノロサはキュレーターとして、これらの膨大なコレクションの整理と陳列を受け持ち、全米各地で日本美術の講演を行いました。

 さて、コンドル(Josiah Conder)はロンドン出身の建築家。お雇い外国人として来日し、多くの建物の設計を手がけました。また工部大学校(現東京大学工学部建築学科)の教授として辰野金吾ら、創成期の日本人建築家を育成し、明治以後の日本建築界の基礎を築きました。彼は鹿鳴館の設計者として有名です。

 コンドルは河鍋暁斎の弟子になり、狩野派日本画を本格的に習っています。ラフカディオ・ハーンと同じように日本女性を妻とし、日本舞踊、華道、落語といった日本文化にも大いに親しみました。妻の前波くめは芸者で日本舞踊家。師匠の菊川金蝶の内弟子をしていたときに、日本舞踊を習っていたコンドルと知り合います。1893年、コンドル41歳、くめ37歳で正式に結婚。フェノロサ岡倉天心、コンドルと辰野金吾(東京駅の設計者)、ラフカディオ・ハーンとコンドルの日本女性との結婚、これらの人間関係は彼らが単なるお雇い外国人ではなかったことを見事に物語っています。

 私のかつての研究室の横は緑溢れるイタリア大使館の裏庭。実に広い庭で、都心にしてはいつも静かで、学生が溢れるキャンパスとは好対照でした。その広い裏庭の横にあるのが綱町三井倶楽部で、同じように広い庭と武蔵野を思わせるような林が広がっていました。三井倶楽部の建物がコンドルの設計になるのを知ったのは定年間近の頃でした。定年後は丸の内をよく通るのですが、そこで目立つのが三菱一号館。現在の建物は復元されたレプリカですが、これもコンドルの設計です。

 コンドルはイギリスの建築家で、お雇い外国人として来日し、工部大学校(現東京大学工学部)の建築学教授となって、明治政府関連の建物の設計を手がけました。コンドルの学生には辰野金吾らがいて、創成期の日本人建築家を育成し、明治以後の日本建築界の基礎を築きます。そのコンドルは、1881(明治14)年に河鍋暁斎の弟子となって、暁英という名を得ます。

 一方、河鍋暁斎1831年生~1889年没)は幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師であり、日本画家です。1837年、浮世絵師歌川国芳に入門し、その後狩野派の絵師前村洞和に教えを受けます。その筆力、写生力は群を抜いており、海外でも高く評価されています。本来接点のない、コンドルと暁斎とをつなぐのは第二回内国勧業博覧会です。内国勧業博覧会は明治政府が近代化促進のために数多くの展覧会を開催した一つで、通算5回行われ、東京で3回、大阪と京都で1回行われました。この2回目の博覧会に合わせて、1881年、上野公園の寛永寺本坊跡に煉瓦造2階建の建物(現在の東京国立博物館本館の位置)が完成しますが、それはジョサイア・コンドルの設計によるものでした。

 この博覧会で暁斎が出品した「枯木寒鴉図(こぼくかんあず)」(榮太樓蔵)は「妙技二等賞牌」を受賞しています。同年、コンドルは暁斎の弟子となります。その後、暁斎は天心とフェノロサ東京美術学校の教授を依頼されますが、果たせずに1889年(明治22年)、胃癌のためコンドルの手を取りながら、逝去しました。

 コンドルはオックスブリッジ出身ではなく、たたき上げの建築家。明治政府の建物設計を手がけ、東京駅を設計した辰野金吾は最初の教え子。河鍋暁斎に師事(1881)して日本画を学び、日本舞踊、華道、落語まで手を伸ばし、いずれもマスターします。1883年設計を担当した鹿鳴館が竣工し、1891年には設計を担当したニコライ堂が竣工。1894年設計を担当した三菱一号館が竣工。今でもニコライ堂の鐘の音を聞き、三菱一号館のレプリカを見て、修復された辰野金吾の東京駅を歩くなら、コンドルの仕事を身近に知ることができます。

 そのコンドルが『河鍋暁斎』(ジョサイア・コンドル著、山口静一訳、岩波文庫、2006)を著しています。これは河鍋暁斎の人生、作品、またその製作技法について書かれた本。日本が生んだ偉大で異色の画家河鍋暁斎について弟子のジョサイア・コンドルが書いたものです。