徘徊と彷徨(2)

 コスモスの次はダリア。ダリアはメキシコを含む中南米が原産地で、メキシコの国花になっている。「花の女王」と呼ばれるダリアは、アステカ文明の時代から栽培されており、その美しさと多様性が人々を魅了してきた。ダリアはアステカ文明において重要な植物の一つとされていた。背丈が5mにもなるコダチダリア(木立ダリア、Dahlia imperialis)はダリア属の一種で、湾岸地域でも見ることができる。

 ダリアはクエルナバーカ、テポソトランなどの高原で自生していた野草をインディオが長年かかって栽培化し、交配により花が様々な色合いと形状の3000ほどの品種が生まれた。15世紀のアステカ帝国時代には球根を食用や薬用としていた。その最初の正確な記録はスペインの博物学者フランシスコ・エルナンデス(Francisco Hernandez、1515―1578)がメキシコ調査中にまとめ、死後出版された『新スペイン動植鉱物誌』(1651)にある。ヨーロッパには1789年、スペインの植物学者ビセンテセルバンテス(Vicente Cervantes、1759?―1829)がマドリードの宮廷植物園のホセ・カバニレス(Antonio José Cavanilles、1745―1804)に種子を送り、それを図解で紹介したスェーデンの植物学者アンデシュ・ダール(Anders (Andreas) Dahl、1751―1789)を記念して、カバニレスによって「ダリア」の名が与えられた。

セルバンテスはその時、ダリアだけでなく、コスモスも同時に送っている。つまり、ダリアとコスモスは同時にヨーロッパにもたらされた。「コスモス」という名前もカバニレスが命名している。

 19世紀の初頭にダリアの栽培と品種改良がヨーロッパ各国で相次いで始まり、ナポレオンの皇后ジョゼフィーヌも一時は熱中し、社交界の話題となった。1830年には品種が1000を超え、1955年には3万を数えるに至った。

 日本にはオランダを通じて1842年に伝わり、「天竺牡丹(てんじくぼたん)」の名前で、幕末に江戸など一部でもてはやされる。明治時代中期から盛んに栽培されるようになったと言われている。和名の「天竺」はインドを指すが、遠方や舶来を表す言葉でもある。つまり、「遥か遠くの異国からきた、牡丹に似た花」という意味を込め、「天竺牡丹」と呼ばれるようになった。

 ダリアはアヘン戦争が始まる1842年に日本に伝来したが、コスモスの伝来は1879(明治12)年と1896(明治29)年の二説がある。伝来当初はダリアが「天竺牡丹」、コスモスが「大波斯菊」と呼ばれ、コスモスは次第に「秋桜」に変わっていく。明治になり、天竺牡丹は「ダリヤ」となり、大正から昭和初期に流行することになる。「マリヤ」なのか「マリア」なのか、いまだに判然としないが、現在は「ヤ」より「ア」が多いようである。「竹内まりや」は「マリヤ」だが、Italiaは「イタリヤ」ではなく、「イタリア」が通用している。

 

一輪の天竺牡丹活けて秋(子規)

二階まで伸びて皇帝ダリア咲く(田中きよ子)

(木立ダリア)