フェノロサとコンドル、そして天心と暁斎

 若きフェノロサがもっと若い岡倉天心を従えて精力的に日本美術の再発掘をするのと同じように、同年輩のコンドルは狩野派の絵師にして浮世絵や戯画までこなす河鍋暁斎の弟子になり、日本文化の虜になります。お雇い外国人二人の来日は共に25歳。青年として来日してからの日本での研究が二人を成長させていきます。

 明治政府は積極的にアメリカ、ヨーロッパに働きかけ、様々な分野の専門家を日本に招き、「近代化」を図りました。その結果、19世紀の終わりまでにイギリスから6,177人、アメリカから2,764人、ドイツから913人、フランスから619人、イタリアから45人の教師や技術者が来日しました。彼らは本格的な開拓が必要だった北海道はもちろん、日本全国で献身的に日本に尽くし、多くの分野で日本人に影響を与えました。

 さて、アーネスト・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa)は1884年(31歳)政府の宝物調査団に任命され、文部省職員の岡倉天心と奈良、京都の古社寺を歴訪します。この調査の最大の目的は法隆寺夢殿の開扉。内部には創建時から「救世(くせ)観音像」があるとされ、誰も見ることができない秘仏中の秘仏でした。救世観音と出会った翌年、フェノロサは滋賀の三井寺園城寺)で受戒、諦信の法名を授かり、仏教徒になります。

 東京藝術大学美術学部の前身は1887(明治20)年に開校された東京美術学校明治維新以降、日本では急激な欧米文化の流入が起き、日本の伝統的な美術や工芸は急速に衰退し、風前の灯火といった状況でした。そこで、設立されたのが日本画や日本工芸を教授し、その技術を受け継いでいく国立の美術学校、東京美術学校でした。その設立のための運動を主導した人物が当時東京大学の教授として来日していたアーネスト・フェノロサ、もう一人はフェノロサの弟子で、後に東京美術学校で校長を勤めた岡倉天心(覚三)。

 フェノロサは1853年にマサチューセッツ州セーラムで、スペインから移民した音楽家の父とその教え子のイギリス系アメリカ人の母のもとに生まれました。ハーヴァード大学で哲学を専攻し、大学および大学院を優秀な成績で卒業。さらに、当時新設されたボストン美術館付属の絵画学校で、油絵や絵画理論を学びました。東京大学では政治学、理財学(経済学)、哲学などの授業を担当し、日本美術に関心を示し、日本画の蒐集と研究を開始。次第に日本美術の世界に没頭するようになり、来日した翌年には狩野派の総帥狩野永悳(えいとく)について、日本と中国の絵画の鑑定法を学び始めました。そんな折、フェノロサ東京大学で一人の学生と出会います。それが岡倉天心。天心は1877(明治10)年、東京大学開校時に森鴎外らとともに文学部一期生となり、大学二年生の時に教授として来日したフェノロサと出会います。この出会いが天心の人生を決め、同時にフェノロサの人生と近代以降の日本美術史をも変貌させることになります。語学に長けた天心とフェノロサは自然と親睦を深め、次第に天心はフェノロサの右腕となり、通訳兼助手の役割を担うようになります。天心は東京大学卒業後、文部省に入省。この頃、フェノロサは来日以来取り組んできた日本美術の研究を通じて、西洋美術に圧迫されて衰退の一途を辿る日本美術の状況を憂い、日本美術再興を訴え、美術研究家としての活動を活発に行うようになります。1882(明治15)年には、日本の伝統美術保存を目的に、明治政府の官僚を筆頭メンバーとして結成された美術団体「龍池会」で講演を行い、日本で初めて「日本画(Japanese painting)」という言葉を用いて、「油絵(oil painting)」と比較して、日本画の優位な点を論じ、西洋文化に傾倒していた日本美術界に警鐘を鳴らしました。フェノロサはこの講演によって一躍有名になります。後に東京美術学校日本画教育の礎を築いた狩野芳崖、橋本雅邦らも加わり、この団体の活動が東京美術学校創立の母体となりました。

 でも、東京美術学校が開校した翌年、フェノロサの文部省との契約期間が終了。フェノロサ東京美術学校と帝国博物館を退職し、1889 (明治23)年、12年間に及ぶ日本での生活を終え、アメリカに帰国。この年、政府はフェノロサに勲三等瑞宝章を贈っています。日本を離れたフェノロサは、アメリカでボストン美術館に新設された東洋部の初代部長に就任。このボストン美術館フェノロサが日本滞在中に蒐集した日本画の他、エドワード・モース、ウィリアム・ビゲローのコレクションも寄託され、日本の国外では随一の日本美術コレクションを収蔵していました。フェノロサはキュレーターとして、これらの膨大なコレクションの整理と陳列を受け持ち、全米各地で日本美術の講演を行いました。

 さて、コンドル(Josiah Conder)はロンドン出身の建築家。お雇い外国人として来日し、多くの建物の設計を手がけました。また工部大学校(現東京大学工学部建築学科)の教授として辰野金吾ら、創成期の日本人建築家を育成し、明治以後の日本建築界の基礎を築きました。彼は鹿鳴館の設計者として有名です。

 コンドルは河鍋暁斎の弟子になり、狩野派日本画を本格的に習っています。ラフカディオ・ハーンと同じように日本女性を妻とし、日本舞踊、華道、落語といった日本文化にも大いに親しみました。妻の前波くめは芸者で日本舞踊家。師匠の菊川金蝶の内弟子をしていたときに、日本舞踊を習っていたコンドルと知り合います。1893年、コンドル41歳、くめ37歳で正式に結婚。フェノロサ岡倉天心、コンドルと辰野金吾(東京駅の設計者)、ラフカディオ・ハーンとコンドルの日本女性との結婚、これらの人間関係は彼らが単なるお雇い外国人ではなかったことを見事に物語っています。

 私のかつての研究室の横は緑溢れるイタリア大使館の裏庭。実に広い庭で、都心にしてはいつも静かで、学生が溢れるキャンパスとは好対照でした。その広い裏庭の横にあるのが綱町三井倶楽部で、同じように広い庭と武蔵野を思わせるような林が広がっていました。三井倶楽部の建物がコンドルの設計になるのを知ったのは定年間近の頃でした。定年後は丸の内をよく通るのですが、そこで目立つのが三菱一号館。現在の建物は復元されたレプリカですが、これもコンドルの設計。

 コンドルはイギリスの建築家で、明治のお雇い外国人として来日し、工部大学校(現・東京大学工学部)の建築学教授となって、明治政府関連の建物の設計を手がけました。コンドルの学生には、辰野金吾ら、創成期の日本人建築家を育成し、明治以後の日本建築界の基礎を築きます。そのコンドルは、1881年明治14年)に、建築とは関係の無い河鍋暁斎の弟子となって、暁英という名を得ます。

 一方、河鍋暁斎1831年生~1889年没)は幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師であり、日本画家です。1837年、浮世絵師歌川国芳に入門し、その後狩野派の絵師前村洞和に教えを受けます。その筆力・写生力は群を抜いており、海外でも高く評価されています。本来接点のない、コンドルと暁斎とをつなぐのは第二回内国勧業博覧会です。内国勧業博覧会は明治政府が近代化促進のために数多くの展覧会を開催した一つで、通算5回行われ、東京で3回、大阪と京都で1回行われました。この2回目の博覧会に合わせて、1881年、上野公園の寛永寺本坊跡に煉瓦造2階建の建物(現在の東京国立博物館本館の位置)が完成しますが、それはジョサイア・コンドルの設計によるものでした。

 この博覧会で暁斎が出品した「枯木寒鴉図(こぼくかんあず)」(榮太樓蔵)は「妙技二等賞牌」を受賞しています。同年、コンドルは暁斎の弟子となります。その後、暁斎は、岡倉覚三とフェノロサ東京美術学校の教授を依頼されますが、果たせずに1889年(明治22年)、胃癌のためコンドルの手を取りながら、逝去しました。

 コンドルはオックスブリッジ出身ではなく、たたき上げの建築家。工部大学校(現東大工学部)の建築学教授として来日(1887)。明治政府の建物設計を手がけ、東京駅を設計した辰野金吾は最初の教え子。河鍋暁斎に師事(1881)して日本画を学び、日本舞踊、華道、落語まで手を伸ばし、いずれもマスターします。1883年設計を担当した鹿鳴館が竣工し、1891年には設計を担当したニコライ堂が竣工。1894年設計を担当した三菱一号館が竣工。今でもニコライ堂の鐘の音を聞き、三菱一号館のレプリカを見て、修復された辰野金吾の東京駅を歩くなら、コンドルの仕事を身近に知ることができます。

 そのコンドルが『河鍋暁斎』(ジョサイア・コンドル著、山口静一訳、岩波文庫、2006)を著しています。これは河鍋暁斎の人生、作品、またその製作技法について書かれた本。日本が生んだ偉大で異色の画家河鍋暁斎について弟子のジョサイア・コンドルが書いたものです。その中で、彼は絵に対する暁斎の自負と高い目標を見事に描いています。