1言葉のもつ力と言葉を操る力
私たちは言葉を操る動物です。その言葉は信念や欲求を正確に表現し、的確に相手に伝える力をもっています。私たちの言葉は真実を、正確に表現でき、その力は他の動物のコミュニケーション能力をはるかに凌駕しています。これらの力は言葉自体が持つ力とその言葉を私たちが操る力との二つからなっています。それがタイトルの「言葉のもつ力と言葉を操る力」の二つの力です。
しっかりした文法、豊富な語彙、正確に叙述する文、巧みな表現からなる会話等々、言葉自体が規則的に組織化されていて、それゆえ、私たちは言葉を系統的、組織的に習得できます。現在私たちが使っている言葉はどれも学習可能で、互いに訳し合うことができます。高度に練り上げられた言葉のシステムは長い歴史の中でつくり上げられ、それは今でも日々変化しています。これが言葉の持つ力です。
次が言葉を操る力。2歳の幼児は既に言葉を操り、コミュニケーションができるようになっています。言語習得はその後もまだ続きますが、言葉をマスターするとは言葉自体の規則の習得だけではなく、言葉の使い方の習得でもあります。それがさらに進むと、言葉を操る専門家が現れます。作家や詩人は言葉を操ることが仕事です。
ここまでは何の変哲もない話です。ここからは騙し、欺くという人間的な悪行について考えてみましょう。人を騙すことは倫理的に褒められたものではないというのが相場です。でも、マジシャンは観客を騙せば騙すほど称賛されます。では、その称賛の理由は何か。人を騙すのではなく、人の知覚を騙すだけだというのがその理由で、これは理屈にかなっています。嘘をつくのもよくないことですが、人にではなく病原菌を騙すことによって退治するのであれば、誰も非難しないでしょう。
私たちは信じることを阻み、疑うことができます。それはいとも簡単なことで、デカルトに言われなくても十分知悉していることです。自分が信じていることを疑い、苦悶した経験は誰でも何度も経験していることです。そこから私たちは、「信じたことを単純に真だと信じてはいけない」ことを学びました。その結果は大切この上なく、実証的に確かめられた真理だけを真理とすることでした。
ところで、「信じない、疑う」ことと「騙す、嘘をつく」ことの間には大きな溝があります。信じないのも疑うのも私が自分だけの都合で勝手にできることであり、それは私的で心理的な出来事です。でも、騙すのも嘘をつくのも私一人でできることではなく、騙す相手、嘘をつく相手がいる公的な出来事です。
「騙される」のも騙す相手がいなければ成り立ちません。「騙す-騙される」という相互関係はどのような関係なのでしょうか。「騙し合い」はその相互関係が二重に重なった関係です。この騙し合いというコミュニケーションの特別の形態は私たちの社会に緊張と注意をもたらしてきました。騙し合いの存在はコミュニケーションに陰影を与え、コミュニケーションが一筋縄ではいかぬ構造をもち、それがコミュニケーションを人間的なものに仕立て上げてきたのです。
さて、人は何故騙すことができ、そして騙されることができるのでしょうか。騙し合いには人の場合、言葉が不可欠な仕方で関わっています。言葉が騙し合いの仕組みを供給しています。最初に、言葉のもつ力、言葉を操る力を強調しましたが、それら力は言葉自体のしっかりした構造から生まれるものだと述べました。皮肉なことですが、その力が人を騙す力、人を欺く力になっているのです。
この正負の効果は力の裏と表の顔ということになります。記号化、コード化、文法、意味、さらに、表現とその使用というコミュニケーションの堅固な仕組みが信頼できる情報を生み出すとともに、「騙す」、「欺く」、「嘘をつく」ことを可能にするのです。騙すことができない言語があったら、それは人の言語ではありません。文を自由につくることができ、それを自由に組み合わせ、出来事を記述できるのですが、その際、偽の文も真の文も巧みに組み合わせ、事実とは異なる架空の話をつくり上げることも自由にできるのです。
文法規則は正直な使用にも欺きの使用にも公平です。真なる文しか生み出すことができない文法の規則があったとすると、その文法の公理はすべて真なる文で、そこから規則によって生み出されるどんな文も真、このような文だけがつくれるなら、偽なる文は生まれる余地はありません。でも、文法の規則は否定を含まなければならず、ある真なる文からその否定形がつくられ、それは真なる文ではなく、それゆえ、偽なる文になり、それを使って人を欺くのはいとも簡単なことになるのです。
私たちは情報を正しく伝える手法を練り上げ、論理や言語を生み出し、正しい情報を伝えることができるようになりました。真正なコミュニケーションによる情報の伝達と蓄積から知識がつくられ、私たちは世界を征服することができたと言われています。でも、同時に私たちは人を騙し、嘘をつくことができる欺きの手練手管も手に入れることになりました。偽なる概念の発見は真の概念の発見と並んで重要であり、それが神の文明ではない、人間独特の文明をつくり上げてきたのです。嘘、偽、騙し、欺きを許す文明が人間の文明であり、それが人間を幸福にすると同時に不幸にもしてきたのです。
2複数の異なる言葉
ここで、「創世記」11章 「バベルの塔」の要約を見てみましょう。地上の人々はみな「同じ言語を話す、ひとつの民族」でした。東方に移動しながら生活していた人々は、シナル(シュメール)の平野に住み着きました。彼らは神がつくられた「石と漆喰」の代わりに「煉瓦とアスファルト」を使った技術を見つけました。人々は団結力を高めようと、その技術を駆使して「都市」と「天国への階段(=塔)」を築き始めました。神はその都市と塔を偵察し、彼らの団結力が神の存在を脅かすと危惧し、人間は「単一民族」で「単一の言葉」を話すような事態になったと結論します。そこで、神は地上を混乱させるために人間が使う言葉を互いに通じないようにしました。そのため、人々はコミュニケーション不能に陥ることになり、都市と塔の建設はできなくなり、まとまった集団は崩壊したのです。人々は世界の各地へ散らばり、やがて別々の言葉を話すようになります。こうして世界は分裂し、崩壊した都市はバビロンと呼ばれました。
*例えば、ピーテル・ブリューゲル(「バベルの塔」1563年 ウィーン美術史美術館)の絵画等でバベルの塔の画像を確認してみて下さい。
単一の言葉ではなく、異なる複数の言葉を導入することによって、人々のコミュニケーションに混乱を引き起こし、それによって人々の住む都市が維持できず、崩壊する、というのが「バベルの塔」の寓意的な物語です。この物語と私が述べた「言葉のもつ力と言葉を操る力」での「騙す、嘘をつく」ことを可能にする言葉の力とは何が同じで、何が異なるのでしょうか。さらに、神は言葉から人を騙し、嘘をつく能力を取り去ることはできるのでしょうか。
そのためのヒントになるのがAIです。言葉を見事に操るのがAIの能力の一つですが、異なる言語の間での翻訳はAIが正に得意とする分野です。自動的な翻訳は既に多くのソフトが存在し、いずれ自動車の自動運転のように、私たちが学習しなくても異なる言語をもつ人たちと自由に会話ができ、文書を読むことができるようになります。
しかし、相手を騙し、嘘を自在につくことはAIにとっても達人になるのは大変なことです。と言うのも、騙しの天才の中身となると誰にもわからない点が多く、秘伝とでも言えるもので、AIに学習させるにはまだ不十分なのです。もし、嘘の天才と呼べるAIができたとすれば、それを凌駕する別のAIができ、その戦いが永遠に続くことになるでしょう。将棋のルールは変わらなくても、勝者の戦略は変わり続けます。ですから、必ず勝つ、勝ち続ける戦略は適応戦略として変化し続けるのです。
3言葉の原罪
こうして、人間のコミュニケーションを阻止する異なる言語の導入と、騙し、嘘をつくことができる言語の導入とが異なり、後者の方が遥かに厄介な言語の特徴だということがわかります。それ故、聖書の表現に従えば、騙し、嘘の「第二のバベルの塔」が人の世界に導入されたことになります。
言葉は人と人を結ぶとても優れた装置、道具なのですが、二つのバベルの塔の存在によって危険な武器にもなってきました。むろん、ずる賢い人たちは言語の二つのバベルの塔を巧みに組み合わせ、それを操ることによって人と自然を部分的に支配してきました。ですから、異なる言葉の間のコミュニケーションと言葉の力とそれを操るチカラの両方を手に入れても、その結果は薔薇色ではなく、人が人を支配する力として用いられる危険性を持っているのです。
聖書のバベルの塔が人々を混乱させる神の企みを象徴しているのだとすれば、人を騙し、嘘をつかせる言葉はアダムとイブの創造に含まれていた、やはり神の企てだと考えることもできます。こうして、私たちは言葉を通じて言葉の原罪を背負っていく運命にあるということになります。