二人の天才:ナーガールジュナとゲーデル

 ナーガールジュナは大乗仏教の祖。そして、『中論』で展開される「縁起・無自性・空」の「空の論理」が彼の思想。彼は形式論理学同一律矛盾律排中律を悉く否定し、世界のシステムを「諸行無常」の「あるがまま」という前提のもとに空にしてしまった。彼はそれを言語批判を通じて行うのである。

 「一切は縁起(原因)によって起こる」というのがブッダの縁起説で、ナーガールジュナはそれを哲学的、論理的に考察する。彼は縁起を因果関係だけではなく、より広い相互依存の関係として捉える。つまり、一切の事物は他の事物との相互依存関係によって成り立っていると考える。彼の論敵は説一切有部の「実体論」。彼らも仏教者として「諸行無常」を認める以上、個々の事物は生滅変化するものであり、実体ではない。でも、この事物の背後に、机ならそれを机とする普遍的本質、言葉の普遍的意味、仏教用語では「自性」があると考えている。ナーガールジュナが徹底して否定するのがこの自性である。

 机はなぜ「机」と呼ばれるのか。机の概念、「机」という言葉の意味によってだというのが普通の考え。だが、ナーガールジュナは相互相依の関係によってだとする。例えば、「父-子」は相互に依存し合い、父なくして子はない、子なくして父もない。子が生まれて、父となり、その父のもとに生まれて、その父の子となる。お互いに依存しあって成立している。つまり、一切の事物は縁起によって成立している。

 縁起から導き出されるのが「無自性」である。縁起は「関係性のネットワーク」、言語でいえば「言葉の意味のネットワーク」である。「父」は「子」だけではなく、「母」、「祖母」、「祖父」、等々といった血縁に関する語と意味のネットワークのメンバーである。そして、このネットワークを拡大すれば、世界観ができる。このネットワークは永遠不変ではない。ものの見方や世界観は時代や場所さらに個人によっても異なる。つまり、縁起によって成立しているものは、その縁起が変化すれば、その事物も変化し、消失してしまう。これは事物がある縁起によって仮に成立している、一時的に成立しているものということでもある。こうして、事物それ自体は「本質」「意味」そして「自性」を持たない、「無自性」なものなのである。

 世界は空である。縁起が人間の作り出したもの、言葉も人間が生きていくための道具として生み出したものだとすれば、縁起や言葉以前の世界はどのような世界なのか。無規定・無意味の世界、つまり「空」である。だが、空は「無」ではない。無においては何も成立しないが、空は無規定・無意味だが、成立しうるあらゆる縁起や意味の可能性を孕んでいる。

 こうして、一切は縁起によって成立しているから無自性であり、一切が無自性であるから世界は空ということになる。

 

 主語と述語をアリストテレスやナーガールジュナのようにではなく、主語は単なる指示代名詞、単なる変項(変数x)であり、比喩的には人差し指で具体的に指すことができる対象であり、それは明らかに可変であり、不定である。単に指示されてものであり、それゆえ、代名詞で表現される。「彼」や「あなた」の変化は変幻自在で、何かを指しているが、指されるものが不変か可変かは状況に依存する。

 実体、本質、属性、そして本体などは、現在の私たちにとっては過去の遺物に過ぎない。現象や仮象も同様に遺物である。

 

 そこで、ゲーデル不完全性定理について考えてみよう。20世紀初頭、数学界の巨匠ヒルベルトは「数学理論は無矛盾で、どんな問題でも真偽の判定が可能である」ことを数学的に証明しようと、全数学者に協力を呼びかけた。これは数学の論理的完成を目指すもので、「ヒルベルトプログラム」と呼ばれた。

 そこに登場したのが若きゲーテル。彼は「算術を含む数学理論は不完全であり、決して完全にはなりえないこと」を証明し、それによって、ヒルベルトプログラムは挫折することになった。これがゲーデル不完全性定理である。

 例えば、私が「私は嘘つきだ」と言ったとする。もしこの文が「本当」であれば、私は「嘘つきである」ことになるが、そうすると「嘘つきなのに、本当のことを言った」ことになり、おかしなことになる。一方、この文が「嘘」だとすれば、私は「正直者である」ということになるが、そうすると、「正直者なのに、嘘を言った」ことになってしまい、おかしなことになる。結局、私の言ったことが、本当でも、嘘でも、おかしなことが起こってしまう。これは、「自分自身について言及しようとするときに不可避的に起こってしまうパラドックス」であることから、一般に「自己言及(self-reference)のパラドックス」と呼ばれている。ちなみに、「私は正直者だ」と言った場合でも、似たようなことになる。まず、この言葉が「本当」だった場合、正直者が「自分は正直者だ」と真実を言ったことになるので、問題なく成り立つわけだが、この言葉が「嘘」だった場合でも、嘘つきが「自分は正直者だ」と嘘を言ったことになるので、これまた問題なく成り立ってしまうのである。つまり、「私は正直者だ」という命題は、真でも偽でも、どちらでも成り立ってしまい、結局、真とも偽とも決められないのである。要するに、「私は正直者(嘘つき)」と、自分で自分のことを判定したところで、自分ではその言葉の正しさを絶対に証明できない、ということになる。

 このような「自己言及パラドックス」が、数学でも同様に起こることをゲーデルは証明した。これは、完全無欠に見える数学理論の中にも、「真とも偽とも決められない命題」、「証明も反証もできない命題」が含まれていることを意味している(第1不完全性原理)。さらに、数学理論が証明不能な命題を含むということから、「正しいとも、間違っているとも言えない不明な部分」が数学理論の中にあることになり、数学理論が「自らの理論体系は完璧に正しい」と証明することは不可能ということになる(第2不完全性原理)。

 不完全性定理は、数学理論をつくり、考える私たちが自己言及という思考方式を用いており、それが数学理論に反映されていることを見事に示している。

 

 ナーガールジュナとゲーデルについてのそれぞれの話を比べた場合、何が同じで、何が違うのか。この問いが有意味かどうかを含め、考える必要があるのではないか。