決定論と自由意志(determinism and free will)の断片的な経緯

 伝統的な決定論は「どんな出来事もそれに先行する出来事によって決定されている」という主張で、未来の出来事は過去の出来事によって決定されていて、偶然的なものは入り込む余地がないということでした。したがって、意志決定のために複数の選択肢を許す自由意志は、その存在が否定されることになります。でも、決定論が主張するように、意志決定の自由が存在せず、すべての行為が因果的に必然的であるならば、どのような行為であれ、それに対する行為者個人の責任はないことになります。ですから、行為の責任を重視するなら、自由な行為の存在を認め、人間の意志決定を認める必要があります。

 神の全知、全能、完全性を前提にした神学的決定論を既に述べました。神が全知であれば、あらゆる真理は神によって予知されるため、決定論が容易に導かれますし、また神が全能であれば、神はあらゆる出来事を予知できます。ヨーロッパの古代・中世哲学では自由意志の問題は神が全知全能というもとで問題となりました。神は創造主として世界のあらゆる出来事を把握しています。そのなかには人間に関わるすべての出来事も含まれ、人間はそのすべてを神によって決定され、その限りで人間は自由な存在ではないことになります。

 17世紀の科学革命の時代になると、決定論的な神概念に自然科学の決定論的世界観が取って代わります。自然法則が世界のあらゆる出来事を決定するとなると、人間の意識から行為までが自然科学(古典力学)の説明の対象になります。古典物理学的な決定論と自由意志の問題に対して、デカルトニュートンライプニッツ、そしてカントらが様々な議論を展開することになりました。

 20世紀に入ってのゲーデル不完全性定理連続体仮説の独立性、種々の計算不可能性、確率・統計の諸定理、そして、統計力学量子力学の知見は、決定論を根底から揺るがす成果であり、完全性や確定性が成り立たないことが当たり前の事実であることを示していて、そこから、神の全知全能性、古典的決定論は絵にかいた餅に過ぎず、様々な意味での非決定論が成り立ち、自由が存在する世界が見えてきました。

 そこで、ゲーデルの定理を再見してみましょう。20世紀数学界の巨匠ヒルベルトは「数学理論には矛盾は一切無く、どんな問題でも真偽の判定が可能である」ことを数学的に証明するよう全数学者に呼びかけました。これは「ヒルベルトプログラム」と呼ばれ、数学の完全性を論理的に完成することを目指す一大プロジェクトとして、当時世界中から注目を集めました。そこに若きゲーテルが参加し、「算術を含む数学理論は不完全である」ことを数学的に証明し、ヒルベルトプログラムは頓挫することになります。ゲーデル不完全性定理は算術を含む理論について次のような二つの主張です。

1)第1不完全性原理

 「無矛盾の理論体系の中には証明不可能な命題が必ず存在する」

2)第2不完全性原理

 「理論体系は自身が無矛盾であれば、無矛盾であることをその理論体系で証明できない」

 第1不完全性定理自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、ω無矛盾であれば、証明も反証もできない命題が存在する、第2不完全性定理自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない、ことを主張しています。

 例えば、私が、「私は嘘つきだ」と言ったとします。この言明が「真実」であれば、私は「嘘つきである」ことになりますが、そうすると「嘘つきなのに、真実を言った」ことになってしまい、おかしなことになります。一方、この言明が「嘘」だとすれば、私は「正直者である」という事になり、そうすると、「正直者なのに、嘘を言った」ことになってしまい、おかしなことになります。結局、私の言明が真実でも、嘘でも、おかしなことが起こってしまいます。これは、「自分自身について真偽を確かめようとするときに起こってしまうパラドックス」であることから、一般に「自己言及のパラドックス」と言われています(ちなみに、「私は正直者だ」と言った場合でも、似たようなことになります)。

 このような「自己言及パラドックス」が、数学においても、同様に起こることが証明されたのです。それは、完全無欠に見える数学理論の中にも、「真とも偽とも決められない命題」、「証明も反証もできない命題」が含まれていることを意味します(第1不完全性原理)。そして、数学理論において、証明不能な命題を含むということは、「正しいとも、間違っているとも言えない不明な領域」が数学理論の中にあるということですから、数学理論が「自らの理論体系は完璧に正しい」と証明することは不可能なのです(第2不完全性原理)。

 こうして、合理的な理論の特徴は完全でも決定的でもないことになります。このようなメタ的な知識に経験的、実証的な知識の暫定的、確率的な性格が加わって、経験世界の知識の特徴が浮き彫りになります。全知全能性や普遍的な決定性を理論や知識に対して仮定すると、その仮定自体が理論や知識のもつ論理的な性質と両立せず、非合理ということになります。その結果、自由と決定といった伝統的な二項対立の議論枠組みも、認識レベルで真偽の基準を見出そうという近代的な枠組みも的外れで、誤った枠組みとなったのです。

 決定論と自由は対立関係にあるのではなく、互いに協力的、補完的な関係にあり、それを具体的に示している例が量子力学多世界解釈です。そこでは、決定と自由の関係は選択の自由として解釈し直されることになります。対立関係ではなく、補完関係にあるのが決定と自由の関係なのです。