ナーガールジュナと違う有

 ナーガールジュナ(150頃-250頃、中国名「龍樹」)は大乗仏教の祖で、彼の思想の中心は『中論(正式名は『根本中頌(こんぽんちゅうじゅ)』)』で展開される空の理論。そこから、大乗仏教の「空即是色、諸行無常」という世界観がつくられました。彼は「一切は縁起によって起こる」というブッダの縁起説を哲学的、論理的に追及し、縁起を因果関係だけではなく、より広く「相互相依(そうごそうえ)」の関係、つまり相互依存の関係として捉え直します。彼はどんな事物も他の事物との相互依存関係によって成り立っていると考え、その関係が空であると論じました。

 彼が論駁したいのは説一切有部の「実体論」です。彼らも諸行無常を認め、個々の事物は生滅変化するもので、実体ではありません。でも、この事物の背後に、椅子ならそれを椅子とする普遍的本質、言葉の普遍的意味、つまり、「自性」を彼らは想定します(自性はプラトンならイデアアリストテレスなら質料と形相)。でも、ナーガールジュナはこの自性を徹底して否定するのです。まるで、ヘラクレイトスの万物流転説のようです。

 椅子が「椅子」と呼ばれるのは、椅子の概念、「椅子」という名辞の意味からだと考えられています。でも、ナーガールジュナはその理由を相互相依の関係だとします。例えば、「父-子」は相互に依存し合って成立しています。父なくして子はなく、子なくして父はありません。子が生まれて初めてその子の父になります。父のもとに生まれて初めてその父の子になります。互いが互いを成立させています。「長い-短い」も、長いがなくて短いはあり得ません。短いがなくては長いもあり得ません。お互いに依存しあって成立しています。つまり一切の事物は縁起、つまり、相互相依の関係によって成立しています。

 この縁起は言語では「言葉の意味のネットワーク」のことです。「父」は「子」だけではなく「母」、「祖母」、「祖父」「叔母」、「叔父」などの血縁に関する語と意味上のネットワークを成しています。そして、このネットワークを拡大すれば、生活世界とその表現となっていきます。そして、この生活世界とその表現は時代、場所、さらに個人によってそれぞれ異なっています。縁起とその言語表現は変化し、生成消滅を繰り替えしています。つまり、縁起によって成り立っている事物は、縁起の変化に応じて変化し、縁起が消失すれば、事物そのものも消失してしまうのです。つまり、事物それ自体は「本質」、「意味」、そして「自性」を持たない、「無自性」なもので、それゆえ、(カントと違って)「物自体」はないのです。

 縁起は人間が作った人工物(artifacts)、言葉は人間が便利に都合よく生きていくために発明したものだとすれば、それらがまだ存在しない世界は無規定、無意味の世界で、それをナーガールジュナは「空」と呼んだのです。空は「無」ではありません。空は無規定、無意味ですが、成立しうるあらゆる縁起や意味の可能性を孕んでいます。例えば、零は空ですが、無ではありません。

 こうして、あらゆるものは縁起によって成り立っていることから、それは無自性であり、一切が無自性であるから、世界は空であるということになります。

 むろん、この空論への反論は可能で、小学生でもすぐに反発したくなる筈です。家系など自性のない最たるものです。でも、曾孫くらいまでは自分の血がつながっていると考え、20代前ともなれば、血のつながりなど無意味だと考えるのが常識ですが、それに対してナーガールジュナはどう答えるでしょうか。

 事物のネットワークと知識のネットワーク、さらに言語のネットワークはウェッブ状になっている点では似ていなくもないですが、実はまるで違っています。ギリシャ以来の哲学は存在論、認識論、論理や言語の哲学と展開し、それらが同じではない点を炙り出してきました。例えば、排中律を否定するかのようなナーガールジュナの議論は直観主義論理に至った訳ではなく、彼自身直観主義的に議論を展開している訳ではありません。また、指示代名詞が文脈に応じて指示対象を変えても、代名詞の「これ」は言語レベルでは不変です。

 このようなことから、『中論』の各論を細部にわたって展開するなら、空の理論は概説的なもので、各論に至ると空どころの話ではなくなるのではないでしょうか。重箱の隅など気にせず、俯瞰的に世界を眺めるなら、世界は空であり、瞰視的ではなく、微視的に見るなら、世界は有です。有が何かを意図的に「仮定する」のが科学です。ある有が誤っていたら、別の有を仮定し直すのです。さらに、有のマクロ世界を刹那として切り取れば、世界は空になりますが、それを微分として解析すれば有に変わります。つまり、自性をもつ有と自性のない空が反転し合うのが私たちの世界だとも考えられるのです。