ナーガールジュナの議論への我流対応

 主語と述語をアリストテレスやナーガールジュナのように自然言語の文法上の主語、述語によって考えるのではなく、論理的な主語と述語によって考えようというのがフレーゲの出発点でした。主語は単なる指示代名詞(変項、変数)と固有名詞(定項、定数)の二つだけです。主語が指しているのは存在論的には個体(individual)で、比喩的には人差し指で具体的に指すことができる対象だけです。自然言語の文法上の主語の多くは述語に置き換えることができます。主語が不変か、可変かは何も主張されておらず、主語は単に指示されたもので、それゆえ、代名詞か固有名詞で表現されるというだけです。「彼」や「あなた」は状況や文脈に応じて変幻自在に変化可能です。

 このような述語論理の形式言語を採用するならば、実体、本質、属性、そして本体などの存在論的な概念は過去の遺物であり、それらに対応する認識論的な仮象や観念も同様の遺物ということになります。存在や認識から独立した述語論理とその言語によって知識や情報を表現することによって基本的な問題の多くをそれまでとは違う仕方によって解くことができるようになります。

 ナーガールジュナは同一律矛盾律が成り立たないことを論じ、空の哲学を打ち立て、大乗仏教の無常思想の基礎を確立したということになっています。サンスクリット語を知らない私には彼の論証を詳しく調べ、その構成を明らかにすることはできませんが、もしそのような議論が無矛盾であったとすれば、何かがおかしいことは推論できるというのが私の主張になります。

 ナーガールジュナが自らの議論で使った論理は私が今使っている論理と同じだというのが最初の仮定です。とはいえ、彼と私の置かれた状況、文脈は違いますので、見かけの論理は違うように見えるかも知れません。私がプラトンアリストテレスの哲学をギリシャ語と日本語の違いを超えて理解できるのは言葉が違っても、論理が同じからです。ですから、私がナーガールジュナを理解できるのは同じ理由からの筈です。

 そこで、ナーガ―ルジュナが同一律矛盾律を否定する議論をどのような論理を用いて行ったかを想像すると、当然ながら私には私と同じ論理規則を使っていたとしか想像できないのです。私には今ある論理とは異なる論理が想像できなく、別の文法規則のように別の論理規則が想像できないのです。そして、私が使っている論理規則は同一律矛盾律を論理的に導出できるものですから、それらを否定する結論は出てくるはずがないと思うのです。というのも、同一律矛盾律とそれらの否定が共に導出されたら、その論理規則は矛盾しているということになってしまいます。

 また、状況や文脈を付け加えることによって、ナーガールジュナの論証における状況論理をつくり出すことはできないことはありませんが、それは特定のモデル内でしか成り立たず、条件付きの議論になり、一般的ではなくなります。

 こうして、私には般若心経などが主張する諸行無常は真理であるというより、経験的な仮説でしかなく、それを受け入れるかどうかは信念の問題だということになりそうです。でも、信念の問題であるからこそ、仏教は宗教なのだときっぱり開き直ることができると思われるのです。