人には「心」があり、「心の壁」は人と人の間を隔てるものだと言われると、雲を掴むような話と思われがちですが、実は意外に簡単なことなのです。心の壁がつくられ、外の物理世界と内の意識世界が分断されるのは、私たちが認識的な述語(epistemic predicate)を自由自在に使うことに起因しています。簡単に言えば、心をもつとは壁をもつことと同じことなのです。認識的な述語は、例えば「知る、信じる、わかる、意識する、疑う」等の述語のことで、自分の心の態度や状態を表現するものです。心の中の状態、つまり意識(consciousness, awareness)は、このような認識的な述語を使って、外の世界について表現した内容が自分の意識の内容だとして表現されているのです。これまでのところ、意識内容は直接見たり、触ったりできないものですから、言葉を使って表現する以外にはありませんでした。
認識的な述語を含まない平叙文には人の意図や欲求は直接的な仕方では述べられていません。ですから、通常の平叙文にはどこにも心の壁はなく、単純明解なのです。次の例文を使って考えてみましょう。
(1)I believe that it is red.
(2)It is red.
(1)と(2)の文は似ているようでありながら、まるで違っています。その違いは「信じる」という認識的な述語の存在、つまり心の壁にあります。(1)の文は「それは赤い」という私の信念を表明していて、(2)の平叙文は「それは赤い」という事実を表明しています。(1)が真でも、(2)が真になる訳ではありませんし、(2)が真でも(1)が真になるとは限りません。つまり、(1)と(2)は心の壁に隔てられて、関係のない別々の言明になっているのです。
「それは赤い」が正しくても、私は「それは赤くない」と自由に考えることができますし、私が「それは赤くない」と考えても、実際には「それは赤い」が正しいことが始終あります。「それは赤い」と信じるのは彼女の勝手なのですが、「それは赤い」が誤りであることは十分あり得るのです。つまり、意識の中の事実は、世界の中の事実とは無関係で、独立しているのです。心は何からも束縛されずに、自由なのだと主張されることの核心の意味はここにあります。
信念や欲求の世界と外部世界とが根本的に異なることは上記のような文の形の違いとして表現でき、多くの人はそれを経験的に知っています。私たちの言葉遣いが心の壁の存在を生み出し、保証しているのです。この壁は見ることができず、その意味では隠れた壁でありながら、はっきりと存在しているのです。
でも、認識的な述語をもたない言語、例えば第1階の述語論理の言語は事実だけを述べる言語であり、上述のような壁は表現できません。述語論理の規則はこの言語によって形式化されており、したがって、論理も壁をつくりません。論理的に考えることは外部世界と内部世界とを区別しないのです。数学や物理学の理論は原理上この言語や論理によって形式化されていますから、数学や物理学では信念や欲求といったものはそもそも表現されないのです。
見えないもの、わからないものへの対応は分かれます。すると、恐怖や不安と期待や希望と二つの異なる心的状態が生まれることになります。前者が悪へ、後者が善へとつながっています。心の壁はそれに応じて、何かを邪魔する壁、何かを守る壁という異なる役割をもつことになります。とはいえ、いずれも個人の精神的な自由と独立を保障する壁になっています。
感覚は壁の外側にあり、感情は壁の内側にあります。私たちは感覚が物理的な所与として壁を越えても変わらないと思っています。感覚を信じなくなるのは心の内側に入ったからではなく、誤って感覚する点にあります。感情は壁の外側にはありません。感覚は所与ですが、感情は私たちが生み出すものです。
優れたAIは壁をもつAIの筈です。そこで、まずはAIの分類をデカルトに頼りながら、考えてみましょう。
さて、デカルトの『方法序説』に登場するのが、「Cogito ergo sum.」。フランス語と英語ではそれぞれ、「Je pense, donc je suit.」、「I think, therefore I am.」です。こんな風に分類すると面倒なことのように見えますが、心の壁の話は実に簡単に理解できるのです。非デカルト的で、反デカルト的なAIが使う言語の一つは第1階の言語で、実に単純なもの。小学1年生でも「僕はAだと思う」と言うことができます。それができないのが第1階の言語なのです。高階の言語の典型はデカルトの議論によく登場します。コギトの話では「自分が疑うことを疑うことができても、疑うこと自体は疑えない」ので、疑う自分が存在する、という有名な議論では、高階の言語を操る「思考」が前提になっています。つまり、デカルトは彼の哲学の出発点から高階の言語を前提にして「私が考える」哲学と知識を組み立てようとしたのです。
心の壁を前提にしたデカルトの哲学は第1階の言語で実在する世界を描こうとしたギリシャ以来の哲学とは違っていましたが、デカルトは二元論的立場で、両方を認めたのです。でも、心の壁と実在の世界、意識と実在の世界がどのように両立するのか、彼以後の哲学の大問題として残ることになります。
第1階の事柄、事態だけが世界の事柄、事態だとして、高階の事柄、事態をすべて第1階に還元するのが科学的な知識の常道です。では、高階は無意味なのでしょうか。第n階とはどのような意味をもっているのでしょうか。nが大きくなると、nとn+1の違いは次第に判らなくなります。でも、高階だけでなく、複雑さを増す様々な仕掛け、工夫がさらにあります。主語には一人一人の異なる個人がなることができます。さらに、時制の違いも存在します。個々の自我が、様々な場所や時間に認識的な述語を縦横無尽に使って表現される言明が描く世界はどれほど複雑か、自我も認識的述語もない言明と比べれば一目瞭然というものです。
このように見ると、世界を叙述することに人間が入ると、途端に複雑になることがわかるでしょう。実際に複雑にしているのは人間自身です。世界を好き勝手に複雑にして頭を抱えているのは何を隠そう、人間そのものなのです。人間の言語とその使用が世界を瞬く間に複雑で、魑魅魍魎の世界にしているのです。
逆に、第1階の言語で数学的な関係を論理的に展開して描かれる世界は実に単純で、それが科学的世界のモデルになっています。科学が単純明解な理由はここにあります。明晰にして判明なのは観念ではなく、第1階の述語論理とその言語で描かれる世界です。科学知識と人間や社会の知識の違いは高階の言語を使うか否かの違いなのです。
私たちが心の壁を意識し、高階の言語を使い、複雑さが増していくと、遂には私たち自身わからなくなります。この結果は自業自得というものです。「高階=壁=論理が通用しない=わからない」といった図式が歴然と存在しているのです。
*例外的な高階の述語は「…は真である」で、「Pは真である」と「P」はほぼ同じだと考えられています。
*上述の議論の中では「認識的な述語」にもっぱら焦点が当てられましたが、認識的な述語の主語については議論しませんでした。信念や欲求を表現する述語には主語が必要で、その際たるものが「私」という主語です。この一人称の主語も科学には表立って登場しないものです。高階の言語に登場する主語の中でも指示代名詞の指示対象は何かとなると、壁のある世界の重要な構成要素として同じように浮かび上がってくることになります。ともあれ、指示代名詞の特徴は指示対象の不定性にあります。固有名詞はいつでもどこでも同じ対象を指し示すことになっていますが、代名詞は融通無碍で、可変的で不定です。
さて、ここから仏教の話に移ってみましょう。
万物が流転すれば、人はそのうつろう現象を知覚(経験)することになります。この世のすべてが無常であるとする仏教では、何一つとしてとどまるものはなく、不変の実体なるものはありません。あらゆるものがうつろうのであれば、おのずと一切は必然的に無我となります。したがって、諸行無常であれば、必然的に諸法無我の理が導き出され、万物流転、諸行無常から無我が導き出されることになります。
「諸行無常」から、私たちが知覚経験するものはすべて無常であるとブッダは主張します。経験世界のすべては常住不変ではなく、これが無我の主張の根拠となりました。ブッダは「定恒永住にして、変易せざるものは、この世には存しない」と主張しました。さらに、この諸行無常という経験世界の観察を人間が経験する悲しみや苦しみと関連づけたのです。ブッダは、この世のすべてのものは無常にして結局破壊にいたってしまうものに過ぎないのに、それに執着してしまうことから人の悲しみや苦しみが生じるのだと考えたのです。そして、「定恒永住にして、変易せざるものは、この世には存しないのである」という理解を徹底すること(覚り)によって執着心をなくし、それがなくなれば人は苦しみから解放される(解脱)と考えました。
ブッダの思想は死後も生残る魂、永遠不変の魂、すなわちアートマン(永遠の個我)の存在が信じられていたウパニシャッドの宗教世界の中で生まれました。しかも、アートマンを認識することは彼らの宗教的救いの根拠となるものだったために、アートマンを救いの根拠とするウパニシャッド哲学の伝統と、すべてが無常であり、そのことを理解して執着から解放されて自由になれ、という仏教の思想とが、真っ正面から対立することになったのです。こうして、仏典は「無常ゆえに、無我である」というブッダの主張を強調し、何度も繰り返し説くことになったのです。
原始仏典の中では、無常がすべての教えの前提になっています。すべてが無常なのだから、すべては苦しみであり、そのように無常と苦にさいなまれている自分と世界の中に、絶対者としての自己、恒常・不変・自在な自我などあるわけはない、ということになります。ブッダの主張の一つが無我です。古代インドのウパニシャッド哲学で主張された「梵我一如」を否定するのが無我。世界の根源的原理ブラフマンと個々の人格の普遍的実体であるアートマンが一致するというのが梵我一如の考え方ですが、ブッダはこれに反対して諸法無我、万物流転、諸行無常を主張しました。自分の手足、自分の身体は指し示すことができます。でも、「自分」という言葉が何を指し示しているか考えてみると、自分に意識があり、自分は人間だとわかるのですが、その自分に対応するものはどこにもありません。自我がないことのヒュームの議論にそっくりです。このように「自分の〜」ということは言えるけれども、「自分」そのものはどこにあるのかはわからないことになります。自分とは言葉の上では存在するのですが、実際は存在しないのです。心も「ただあるのは心」だけで、自分の心があるわけではありません。
こうして、自分は存在しないことになります。そうした探求を進めていくと、手も足も身体もただ構成要素がそういう形を成しているだけで、実質的に手や足も身体もない、という考えに行き着きます。結局、手や足や身体が存在するように見えるのは、心の中でそう認識されているからに過ぎないのです。唯識派はそのように考えました。唯識の「識」とは「心」のことですから、「ただ心だけしか存在しない」というのが、唯識派の主張となります。ヨーガを実践して心の深層を読み込んだ唯識派は、もっと踏み込んで「すべての現象は、すべて根本心である阿頼耶識から生じたもの、変化したものである」と主張しました。唯識派によれば、心の外に存在するものはありません。あるのは心の中の影像のみなのです。ものはすべて心の中にあります。何ともデカルト的で、映画「マトリックス」の世界そのもの。
*このように言語の話から仏教の話へと結びつけて見ると、それぞれの話の特徴が浮かび上がり、本当に結びつくのかどうかさえ怪しいものだと思う人が出てくる筈です。万物流転、諸行無常が何を意味しているか、ヘラクレイトスとブッダでは同床異夢、呉越同舟なのだと思う人が少なくない筈です。となれば、もっと丁寧に、注意深く考えてみる必要がありそうです。