現実の世界で私たちの心がどのように振舞うかを知ることは今の私には無理難題というもので、単純この上ないモデルを使って思考実験でもしてみるしか手はありません。私が思うに、今のところ心の振舞いを物語として描く仕方で断片的にでも成功していると思われるのは一握りの文学作品に過ぎません。
まずは現実世界のミニチュアとして「自然数からなる世界」をモデルにしてみましょう。この単純で明解な世界には自然数だけが存在し、0から始まり、1,2,3、…と自然数だけが続いて存在している世界です。そして、それ以外の対象は一切何もありません。常識的にはこんな子供騙しの単純なモデルは世界とは呼べない代物です。それでも、その世界には「事実」があり、それは自然数論の言明として表現されます。かつてウィトゲンシュタインが「世界は事実の集まりだ」と述べましたが、これはそのミニチュアにあたるものです。ミニチュアでも原理は同じで、「事実」とは設定された言語で表現される真なる言明のことです。でも、私たちはウィトゲンシュタインとは違って、世界ではなく世界を「知る」とは何かを問題にしようというのです。その世界について「知る」ことは知る主体の心の内の操作であり、それが明示的に表現されないのが自然数論の世界です。次のような論証に登場する個々の言明が自然数からなる世界についての事実の記述です。これら事実は因果的な経験的事実とはまるで違っていて、時間・空間を超えて(超越的に、普遍的に)成り立っているものです。
4は3より大きい。
4は8の半分である。
よって、8の半分は3より大きい。
これら三つの言明は事実のほんの三例に過ぎません。さて、知る主体の心の態度(mental attitude)をこれら事実の集まりに加えてみましょう。様々な心の態度がありますが、「知る」という認知の態度を選んでみましょう。そして、「知る」を自然数論の言明と組み合わせて、高階の言明をつくることを許すことにしましょう。さらに、「知る」の主語の候補として、「神」、「数学者」、「小学生」の三者を考えてみましょう。
自然数論の言明を第1階の言明と呼び、「知る」を1回使ってできる自然数論の言明を第2階の言明、n回使ってできる言明を第(n+1)階の言明と呼ぶことにしましょう。すると、ウィトゲンシュタインの事実の集まりとは第1階の自然数論の言明の集まりということになります。第2階以上の言明は、世界についての私たちの心の「知る」態度を様々に表現していることになります。
そこで、小学生のA君について次のような言明をつくってみましょう。
A君は4が3より大きいことを知っている。
A君は4が8の半分であることを知らない。
だから、A君は8の半分は3より大きいことを知らない。
これら言明はそれぞれ第2階の言明です。第1階の事実についての言明との違いは誰にも明らかです。世界の事実を表現した言明が第1階の言明、世界の事実を知ることを表現した言明が第2階の言明なのです。さらに、例えば「A君は自分が8+5=13を知らないことを知っている」は第3階の言明になります。
まず、神が自然数の世界でどのように事実を知るか考えてみましょう。神は全知全能ですから、例えばゴールドバッハの予想「6以上の任意の偶数は、二つの奇素数の和で表せる」について、私たちとは違って、神はその答えを知っています。その他の未解決の問題についても神にはそれが真か偽かわかっています。神にとっては、自然数の世界の事実とそれについて自分が知ることは完全に一致していることになります。ですから、神にとって次の二つの言明について違いはないことになります。
4は3より大きい。
神は4が3より大きいことを知っている。
これら二つの言明は神にとっては同じ言明になります。神は認知に関して誤りません。ですから、自然数についての事実なら、それを神が知り、自然数について神が知る事実は、自然数についての事実であることになります。「存在する」こととそれを「知る」ことが完全に一致しているというのは正に神業で、だからこそ神なのです。これはまた、神については高階の言明は第1階の言明にスムーズに還元されることを意味しています。神の「知る」活動は世界を変えず、混乱を起こすこともなく、無害なのです。
これで神の完璧な「知る」はすべて了解だと思われそうなのですが、実は簡単な自然数の世界であってもゲーデルの不完全性定理は成り立っています。ですから、その真偽を証明できない言明が必ず存在することになっていて、神がこの定理の適用外だとすると、私たちには神の知り方(認知方法)がわからず、神は非論理的、非合理的に知るということになってしまいます。というのも、神が合理的であるならば、自然数について知ることができない言明が神にもあることになるからです。
次に、数学者はどうでしょうか。数学者も神に似て、「知る」をできるだけ使わずに自然数についての言明、つまり第1階の言明だけを使うことに徹しようとします。第1階の言明の中には真偽がわからない、いわゆる未解決の問題がたくさんあります。そして、それらの解決が数学者の仕事ということになります。そんな中で、哲学好きの数学者が高階の言明に関心をもつことになります。それらは「知る」やそれに類似の認識に関わる表現を含んだ言明で、真偽不明の言明が眼前にあって解決できないと、「知り方」自体を問い直すことになり、その際に高階の言明が登場するのです。
さて、最後は小学生の場合です。神や数学者は直観や論証によって言明を扱えば済むのですが、小学生の場合は「知る」の実証レベルでの検証も必要になってきます。
A君は4が3より大きいことを知っている。
A君は4が8の半分であることを知らない。
だから、A君は8の半分は3より大きいことを知らない。
A君の場合、これら言明の真偽は直接彼に確かめなければわかりません。A君が悪意をもって騙そうとするかも知れませんから、そのような場合はうそ発見器を使うことも考えなければなりません。神や数学者の場合に現れなかった「知る」の本来の姿がここに現れてきます。A君が成長するにつれ、よりはっきり現れる、まさに人間的な知り方です。「知る」は哲学的な思索から現実的な手練手管に変わるのです。このように考えると、小学生になって急速に増える認知的な言明とその実証テストは、確かに高階の言明が複雑でわかりにくいことを示してくれます。ですから、上の各言明の真偽ではなく、それらの意味や使い方が認知心理学の問題として実証レベルで研究されることになります。
以上が三者三様の「知る」ことの違いです。さて、ここからが肝心なことですが、その複雑さの途轍もない増加によって、文学者なら「知ることの迷宮に入る」とでも形容するでしょうが、そのことによって自然数論の定理が増えるかと問われれば、驚くことにほとんど何も増えないのです。つまり、自然数論に「知る」という述語が加わることによる世界の拡大は自然数論自体には何の積極的な貢献もしないのです。これを一般化すれば、物理世界に「知る」を加えても物理世界は大して変わらないということになります。
でも、自然数論の学習については相当の貢献をする筈です。子供たちが効率よく自然数について学習するための認知科学的な方法の開拓には大いに寄与する筈です。繰り返せば、心の働きの代表の一つが「知る」ことであり、それをつけ加えた上述の自然数論+「知る」では、その知ることの働きが具体的に想像できます。でも、心を知るためのこのモデルは自然数論自体には何の貢献もしません。
これまで表象主義的な観点から第1階の言明を事実と考えて議論してきました。心とは意識であり、その意識は何かを表象することだと考えたのはデカルトでした。表象も志向的なもので、「表象する」だけでは判然とせず、「何かを表象する」必要があります。私たちのモデルは自然数でしたので、「何を表象するか」と問われれば、それは「自然数」でした。一般的に表象主義の「何か」は外部世界の事実なのですが、デカルトの表象は心的な事実や概念なのです。すると、デカルト流には、「Pを知る」のPは外的な事実ではなく、心的な事実(イデア、観念、心的イメージなど)ということになります。つまり、デカルト流では第1階の言明は心的な事実についての第1階の言明ということになります。
このデカルト流の表象モデルは私たちの数についての一般的なイメージにうまく合っています。心に関するデカルトの支配、呪縛は強烈ですから、私たちがデカルト、さらに遡ればプラントンの影響を受けているために、数はイデアとして心的な対象として表象されると思われてきたのです。数は物理的な対象ではなく、イデアのようなもので、それは心的な存在として表象されるとなれば、これはプラトンとデカルトの合作ということになります。
これらのことから出てくるのは、「私が知る」という心の本質的な機能は知識の獲得に大した貢献をしていないということです。それどころか、単純明解の第1階の言明に高階の言明を混ぜ合わせて混乱を生む方が圧倒的に多いのです。自然数のモデルだけからでも、認識や信念に関する分析は暗礁に乗り上げること間違いなしということになります。ですから、実証的なテストという手段に頼るしかありません。「知る」ことの分析を実証的なテストに委ねることは、心の働きは実証的にしか明らかにできないことを意味しています。
自然数の代わりに物理的な対象からなるモデルとそれに「知る」が加わった高階のモデルも容易に想像できます。自然数の場合とほぼ同様に、「知る」は物理モデルの第1階の言明を知るには必要でも、それは通常はメタレベルのものとして表には出ません。また、「知る」を含む高階の言明は混乱を引き起こすだけのものです。
日常生活の中で使われる知識の重要な点は、知識の内容を正確に知ることではなく、それをどのように使うかにあります。知識を知ることとその知識を使うことは同じではありません。第1階から高階までの言明の巧みな使用によって、様々な場面で勝ち負けのために知識が利用されてきました。これは知識の驚嘆すべき利用であり、それが人間社会をつくってきたのです。「知る」ことと知ったものを「使う」ことは同じではありません。私たちが知識を学習するのは二つの目的があります。一つは学習した知識を使って新しい知識を手に入れるため、他は学習した知識を利用して生活するためです。ほとんどは生活のために使うのが知識であり、その際は小学生の場合のように実証的な仕方で「知る」の振舞いを知るしかないのです。
*本文では「自然数論」を例にしましたが、通常の数学理論なら何でも構いません。同じような議論を展開できます。でも、経験科学の理論となると、話は面倒になり、同じようにはいきません。数学理論のモデルは私たちが約定によって作り出せますが、経験科学のモデルは所与(given)のものを措定するしかありません。さらに、言葉や映像となってくると、知覚と言語によって想像される世界が不可欠になります。これは半ば心的な世界と言ってもいいでしょう。すると、当然ながら、私たちの精神世界も考慮されることになります。こうして、「何」を知るかに応じて世界はめまぐるしく変わることになるのです。
*私たちが知識を学習するのは、ほとんどの場合それを使うためであって、新しい知識をつくるためではありません。人は学習した知識を巧みに操ることに長けていても、新しい知識を生み出すことは大抵苦手です。でも、「知る」には二つの役割があることは誰も否定できません。