物自体、そして、空間と時間についての夢想(1)

 空間と時間は世界や対象が持つ客観的な性質ではなく、人間の主観的な形式だと主張したのがカント。彼にとって空間と時間とは、事物(感覚の対象、物自体)がもつものではなく、認識主観がもつアプリオリな能力だった。

*私たち一人一人がもつ時間や空間は事物や世界にある時間や空間と同じか違うか、違うならどのように違うのか、特に主観的な時間、空間は物理的な時間、空間とどのように違うのかをカントに尋ねたくなる。そもそも「私がもつ時間と空間」はどのような時間、空間なのか。時間と空間に関するカントの功罪は認知科学と物理科学とでは大きく異なるように見える。何かを知るのに時間と空間という形式が一見不可欠に見える反面、その時間と空間が異なっても知る内容が不変であれば時間と空間は無視することができ、それが物理世界の知識の普遍性をもたらしてきたことも忘れてはならない。いつでもどこでも正しい知識は時間と空間を無視できるのである。

 カントは、認識作用にアプリオリとアポステリオリの区別を持ち込み、主観と客観の共同作用によって知ることができ、そのスタートとなる知覚のアプリオリな形式として空間と時間を持ち込む(生得的-獲得的とアプリオリ-アポステリオリとの相違は厄介なのでここでは無視しよう)。デカルト以来の哲学はいずれも空間と時間とを物自体に結びつけて理解しているが、人間には物自体を把握する能力は備わっておらず、物自体に触発されて生じる現象を捉えることができるだけというのがカントの信念。この信念を支える理由が、空間と時間を物自体の性質とすると、アンチノミーが生じるということだった。カントにとって、時間と空間は何かを知るために必要な装置であり、研究の対象ではなく、研究の前提になっていた。実際、カントは時間と空間の解明をする代わりに、デカルト以来の空間や時間についての諸説の批判に向かう。
 デカルトにとって物体と精神は二つの異なる実体。精神は人間の意識、物体は延長に過ぎなく、その延長の本質が空間。だから、デカルトの空間は精神とは異なる実体なのだが、人間の意識に現前する。なぜ精神とは異なるはずの実体が、精神という実体の中で意識されるのか。これがカントの批判である。
 デカルトにとって真空は理論上存在せず、エーテルが仮定された。だが、エーテルがつまっている空間を厳しく批判したのはニュートン。空間は神が万物を創造する器として必要だとニュートンは考えた。ここから彼の絶対空間論が出てくる。絶対空間は物質が取り除かれても消失せず、それ自体で存在する空間である。この絶対空間を、ニュートンは神の「感覚中枢」と呼ぶ。これに対してライプニッツは、ニュートンの絶対空間を批判し、物体を作り出したのは神であるが、その神が絶対空間の助けを借りて物質を創造したと考えることは、神の絶対性を否定することだと主張した。ライプニッツは、空間が神のつくった物質の相互関係を表すための概念に過ぎないと考えた。それによって、物質も空間も神によって創造されたという点では同じだということになる。
 カントはこれら三者の考え方に対して、いずれも空間を物自体が存在するための条件として考えていると批判する。カントの立場は、空間を物自体との関連において考えるのではなく、人間の主観的な要素との関連において考えるものだった。つまり、空間とは客観的な実在ではなく、対象を認識するための主観的形式なのである。そう考えれば、空間をめぐる哲学上の論争にもけりがつくし、空間や時間をめぐるアンチノミーも意義を失うことになると考えたのである。

*このような解釈、理解にはカントへの忖度が見事に表れている。カントは時間や空間の議論をパスして、別の観点から時間と空間を捉えたのであって、それまでの時間や空間についての問いに答えた訳ではない。彼は時間と空間の議論に別の観点を導入したのである。「時間や空間という形式を通じることなく対象を知ることは本当に人間にできないことなのか」とカントに抗してみようと試みても、肝心の「時間や空間の形式」が具体的にどのようなものかがよくわからないのである。

 人間が認識しているのは現象であって、現象の背後にある物自体は認識できない。これは哲学史上「カントの物自体」として有名になったテーゼである。人間の認識は対象そのものを知るのではなく、自らに備わった内的な枠組みに当てはめて知るのである。その枠組みとは、空間と時間というアプリオリな形式のことである。人間はこのアプリオリな形式を通じて、物自体を知るのである。
 そのように考えたカントは物自体についてのロックとライプニッツの説を批判する。ロックも基本的にはカントと同じく、人間は物自体を認識できないと考えた。人間が認識できるのは物自体によって喚起された現象である。ここまではカントと同じが、その先が微妙に違う。ロックはカントと違って、人間にアプリオリな能力が備わっているとは考えなかった。人間の心は真っ白なテーブル(タブラ・ラサ)のようなもので、そこに経験を通じて様々なものが書き込まれる。ロックの経験主義によれば、人間の知識は獲得的なもの。ガリレオによれば、対象が人間にもたらす感覚は二種類ある。形や質量など対象そのものに固有な性質(第一性質)と、色、匂い、音などは人間の感覚器官によって生み出される性質(第二性質)である。第二性質は対象の性質ではなく、対象と人間の感覚との相互作用から生まれるから、人間がいないところには存在しない。それに反して第一性質の方は、人間がいなくても存在することから、物自体に固有の性質であるとロックは考えた。だが、一方で物自体は認識できないと言いながら、他方で物自体について言明するという矛盾を犯している、とカントはロックを批判する。
 ライプニッツは、人間には物自体を認識する能力があると考えた。だが、人間は神とは違って、物自体を瞬時に明晰に認識するわけにはいかない。それでも、人間は感性から出発して、知性を働かせることで、次第に物自体の真相に迫っていくことができる。感性の段階ではまだ曇っていた物自体の認識も、知性によって処理されることによって次第に明晰になっていく。これに対してカントは、感性と知性は互いに連続したものではなく、基本的に別の物だと考える。感性は対象を直観し、知性はその直観を材料にして概念をつくるだけでなく、知性のアプリオリな能力を用いて普遍的で必然的な概念を生み出すことができる。ライプニッツが、知性と感性との本質的な相違を理解しないのは、人間は物自体を認識できるのであり、認識が対象と一致することで真理が生まれるという伝統的な偏見に囚われているからだと批判する。
 だが、ここでカントの物自体について、真理とは何かというアポリアが生じてくる。西洋哲学の伝統に従えば、真理とは人間の認識が対象と対応する、一致することだった。そして、対象とは物自体であり、カントによれば人間には物自体そのものは認識できない。となると、真理を語ることができるのか。真理はカントにとって、神の存在などと並んで形而上学の問題であり、真理の問題は棚上げされてしまったようなのである。少なくとも真理の対応説(言明内容が事実に対応していれば、その言明は真であり、逆も成り立つ)は成り立たなくなるのである。
 真理の問題を離れても、人間の世界認識の相対性の問題などは、ユクスキュルの問題意識とつながる。人間の目に映った世界があるように、クモの目に映った世界がある。同じ対象世界なのに、人間とクモが知る世界は様相がまるで異なる。こうした事情をもとに、人間の世界認識の相対性が盛んに論じられるようになった。これは、同じ世界を認識する場合でも、認識主体に生まれ備わった能力に応じて、世界は違ってみえるということを意味している。

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*種に固有な能力はどれも進化の過程で獲得されたものである。これは進化生物学の基本中の基本である。個々の個体が生得的にもつ形質や能力は、その個体が属する種が長い進化の過程で獲得してきたものである。個体にとって生得的、アプリオリなものは種にとって獲得的、アポステリオリなものというのが、例えばローレンツの立場である(生得-獲得、アプリオリーアポステリオリの対は異なる対である)。