物自体、そして、空間と時間についての夢想(2)

 哲学的な話から進化の話への移行は、時間や空間、物自体についての不毛な議論への不満の表れでもある。そこで、異なる観点から話し直してみよう。「決める」と「決まる」についてこれまで何度か考えてきた。そして、科学は因果的に決まる現象を説明し、論理学は証明できるかどうかを決めようとすることを色々探ってきた。
 私たちは、「決める」は「…を決める」であり、「決まる」は「…が決まる」だから、「決める」は他動詞、「決まる」は自動詞だと反射的に考えてしまう。そして、そこから「決める」と「決まる」の違いは動詞の種類の違いだと気づき、大きな糸口を見つけたかもしれないとつい思いたくなる。だが、この文法上の規則は哲学的な真理への窓口を示唆しているのかとなると、それはどうも期待外れに終わりそうなのである。
 自動詞と他動詞の区別は受験英語に必ず登場するもので、次のように説明されてきた。自動詞は目的語を必要としない動詞、他動詞は目的語を必要とする動詞と分けられるのが普通である。ここで、目的語は品詞ではなく文の要素と呼ばれるものである。よりわかりやすく、「を」や「に」が含まれていない動詞が自動詞、「を」や「に」が含まれている動詞が他動詞である。
 主語「…が」~するときは自動詞、目的語「を」~するときは他動詞になる。自分が動くので自動詞、他人を動かすので他動詞と言うこともできるが、それ以上のことは曖昧なままなのである。それでも、自動詞、他動詞の区別は、次のような感覚や認識に関する動詞については明らかに何の効力もない区別である。

「私が知る」、「私が事実を知る」
「私がわかる」、「私が本質をわかる」
「私が感じる」、「私が美を感じる」
「私が気づく」、「私が事実に気づく」
「私が意識する」、「私が世界を意識する」

残念ながら、自動詞と他動詞の文法上の区別はこれら動詞の哲学的な違いをはっきりさせてはくれない。

 色を「感じ、知り、つくる」ことはサイクルをなしている。「感じ、知り、つくる」という正のスパイラルが働き出すと、私たちは色の感覚質がこのサイクルの中でどのような役割を演じているのかが次第にわかるようになってくる。そして、色を知るという判断、色を楽しむという鑑賞、色を使うという仕事に感覚質がどんな役割を演じるかが経験的にわかってくる。
 感覚質はそれを経験する正にその人、その時に存在する。感覚質は記録されるとデータとして別物になってしまう。巧みな表現力で感覚質の経験を述べたところで、それは感覚質ではなく、感覚質についての叙述に過ぎない。感覚質は経験することによってしか実現しない。だから、私が経験することとは無関係に存在できる椅子や机とはまるで違っている。私が感じないと存在しないのが感覚質であり、私の恋人の感覚質は私には感覚質ではない。私の記憶の中に感覚質は存在できると私は思っているのだが、記憶としての感覚質は感覚質そのものなのかどうか、判然としていない。
 感覚質、そしてその記憶の表現の仕方は実に様々である。できるだけ感覚質そのものの再現を目指すのが芸術で、詩歌は言語を駆使することによって感覚質経験の再現に努める。感覚質に寄り添うのが芸術の本来的な姿であり、これは画像による再現とは違っている。写真や動画も世界を再現するが、感覚質もその中に入っている。正確な情報が物自体や物の本質とどのように関わっているのか、大変興味深い問題が考えられる。
 詳細なのは性質の記述であって、それを限りなく詳しくすることが実在に肉薄することになる。固有名で直接指示するものが何かは謎があって構わない。私が将来どのように変わるかは私にもわからない。だから、私は私自身を知らないのだが、それでも私は私を知っていると確信している。
 「実在-形式言語自然言語-感覚」という系列こそ、哲学史に登場してきた議論の骨組みを示す系列である。そんなことを考えていると、夢の中でカントの「物自体」を夢想してしまう。以下はその夢想の中身である。
 時間と空間を通じての認識は物自体をわからなくしてしまう。だが、私たちには時間と空間を通じてしか認識できない。つまり、私たちの物自体についての認識は不完全な認識で、物自体を歪めてしか認識できない。

(1)時空を通じて知る
(2)時空の中で知る
(3)時空の中にある
(4)時空をモデルの基本構造の要素にする

(3)と(4)は存在に関わり、(1)と(2)は認識に関わっている。このような区別のもとに、直観の形式としての時間と空間はカントではどのように定義されているのか。その存在論的身分はどのようなものなのか。時間や空間の測定はどのように行われるのか。こんな問いが噴出する。
 (1)と(2)から長い時間、短い時間、大きなサイズ、小さなサイズがあって、私たちがコントロールできる長さやサイズには限度があり、時空の中で知ることの限界が見えてくる。だが、カントの物自体の認識の不可能性はそんな不可能性ではない。(1)や(2)によって知る場合、その時空は知る対象を歪めるのだろうか。複数の異なる時空があり、その違いが対象を歪める際、どのように歪めるのかわからなければ、歪めるとも歪めないとも主張できないのではないのか。公平な時空や座標があると考えるのがむしろ自然ではないのか。経験、例えば行為は時空の中で行われる。でも、行為自体は問題にならない。行為自体は知り得ないとは誰も思わないが、時空を通じてしか知ることができないため、物自体は直接に知り得ない。「時空を通じて感覚する」こと自体がどのようなものかが描き出される必要があるのだが、それが欠けているのである。
 感覚質も時空を通じて知る、感じるのだが、それは物自体とは違って知り得るのはどうしてなのか。感覚質は感覚されるのだが、述べられると感覚質ではなくなる。カントによれば、知性による処理によって失われるものなのである。少々手厳しくまとめるなら、カントは時間と空間にそれまでにない役割を付与したが、時間と空間が何かについての知識を増やすことはなかった。カントは物自体という概念を使ったが、それが真理にどのような障害をもたらすかは議論しなかった。