花の色:色素、感覚質、常識

 人は、花の命がその形と色にあると思い、様々な形と色の実現に魅了されてきました。私たちが花の形態と色彩を別々に知覚することはまずなく、一方だけを考えること自体とても例外的、人為的なことなのですが、それでもあえてその色に注目してみましょう。私たちが見ている花の色は、光が花に当たったとき、色素に吸収されずに花の表面で反射する可視光線の色によって決まります。ところで、白い花には色素がほとんど含まれていません。でも、花の細胞と細胞の間には気泡がたくさん存在しています。光を吸収する色素がほとんどなく、気泡が光を乱反射させると、その結果、白色になるのです。
 植物がもつ代表的な色素は、フラボノイド、カロテノイド、ベタレイン、クロロフィル葉緑素)の 四つに分類できます。フラボノイドは黄色から青色まで幅広い様々な色を出す色素の仲間で、7000 種類以上の化合物があることが知られています。例えば、キク、カーネーション、バラなどの白花にはこの類の色素が含まれています。多くの植物がフラボノイド系の色素を持っていますが、花の色を決める代表的な色素はフラボノイド系のなかでもアントシアニンと呼ばれる化合物群で、その化学構造の違いが、花の色の違いとして現れるのです。また、アントシアニンは pH(水素イオン指数)が変化すると、色が変化するという性質があります。一般に pH が小さい酸性では赤色、pH が大きいアルカリ性では青色となります。まるでリトマス試験紙のように色が変化するのです。
 カロテノイドは黄色から橙色、赤色の範囲の色を出す色素の仲間です。フラボノイドも黄色を出しますが、黄色い花の多くはカロテノイドによるものです。品種改良によってカロテノイドとアントシアニンを組み合わせた花を作ると、花の色を微妙に変化させることができます。ベタレインは黄色から紫色を出す色素の仲間です。ベタレインはマツバボタンやサボテンなど一部の植物のみが持つ色素です。これらの花はベタレインで赤色や紫色を出すことができます。
 クロロフィルは緑色を出す色素で、植物の葉や茎にたくさん含まれています。花はつぼみのときにはクロロフィルを多く含んでいるので緑色をしています。花が咲く時期になると、フラボノイドやカロテノイドがどんどん作られるようになり、それに合わせてクロロフィルが急速に少なくなります。そのため、緑色が失われて、花の色が赤色や黄色となります。ただし、カーネーションラ・フランスのように、クロロフィルが完全に消えずに、緑色の花を咲かせるものもあります。
 アジサイに含まれているアントシアニンはデルフィニジンという化合物です。アジサイの色は土壌が酸性だと青色、アルカリ性だと赤色になることが知られています。これは既述の説明とは逆で、アジサイの花の色は pH だけで決まらないことを意味しています。
 さて、植物はいったい何のために美しい花を咲かせるのでしようか。それは決して人の目を喜ばせるためだけではありません。植物は種を実らせるために花粉を雌しべに受粉させる必要があります。その仕事を昆虫に頼るものは彼らを花に訪れさせなければなりません。昆虫を惹きつけるために花は日立つ色や形をしていたり、かぐわしい香りを漂わせたり、その奥深くに蜜を用意したりしているのです。私たちの目を楽しませる様々な花の色も植物が子孫を残すための装いに他ならないのです。
 自然界の花の色の系統は、白色系が33%で最も多く、次いで黄色系が28%、赤色系が20%と続き、紫系と青色系を合わせて17%、その他の系統色が2%といわれています。このように花の色が様々なのは、その種類特有の色素物質がその組織の中に含まれているからです。
 最初に述べたように、他の色とは違って、白い花には白い色素というものは含まれていません。たいていの場合、無色からうすい黄色を現わすフラボン類またはフラボノール類という色素が含まれています。例えば、キク、カーネーション、バラなどの白花にはこの類の色素が含まれています。それではなぜこれらの花はうす黄色や透明には見えずに白く見えるのでしょう。これも既述のように、花びらの中の組織がスポンジのように空気の小さな泡をたくさん含んでいて、光が当たったときに丁度ビールの泡のように白く見えるがらなのです。

 これまでの叙述は、色素を使った花の色の説明が色の化学構成を使ったものであり、実在する色素とその機能によって花の色を理解するものであることをはっきり示しています。ですから、そこには色を感じる私たちの感覚知覚やその感覚内容については常識的な事柄以外は何も入っていません。極端な言い方をすれば、色素を使った説明だけで完結しており、感覚器官や感覚質には言及されていないのです。その意味で実に見事な説明になっていますが、素人には実に退屈な説明でもあります。
 それでも色素について素人の私たちが花の色について理解できるのは、色についての常識的な知識があるからだと推測できます。というのも、色素という概念自体が「色」を前提にしてつくられているからです。そして、このことは色素とは反対の極にある色の感覚質についても同じように主張できます。感覚質は言葉をもちません。その感覚質について考え、話すことができるのは色についての常識的な知識とそれを表現する言葉があるからです。こうして、色素も感覚質も、色の常識的な知識と言葉に依存して考えられ、表現されているのです。
 この常識的な知識は色の多様な側面を互いに伝え合うための情報として役立っていて、私たちの共通の色理解につながっています。色素と色の感覚質は共通のものを一切持たないのですが、それらをつなぐのが常識的な知識ということになります。色素はより正しい知識に洗練され、常識や言語も変化していきますが、感覚質にはそのような変化は考えにくいのです。というのも、感覚質は生得的な感覚内容であり、生得形質は簡単には変化しないものだからです。そうであっても、獲得的な知識や常識と言葉とに囲まれた感覚質は独立自尊を守ることが難しいのです。例えば、感覚質に対する感情、記憶等は大いに環境、状況に影響を受け、感覚質に対する意識は変化するからです。