形式論理学とカント

 プラトンが個物を超えた超越的な本質をイデアと呼んだのに対して、アリストテレスはそのようなイデアを否定し、個物に内在する本質をエイドス(形相)と呼びました。アリストテレスによれば、現実に存在するのは個物だけで、個物はそれが「何であるか」を規定する形相と素材となるヒュレー(質料)から成り立っています。形相は個物の生成発展の運動を通じて実現すべき目的、その完成態だというのがアリストテレスの考えです。そして、アリストテレスはこのような存在論的な哲学を背景に、自然言語を使って知識を表現するための規則として三段論法を中心にした論理学を形式化しました。

 アリストテレスの論理システムを存在論的にではなく、認識論的に解釈したのがカントです。現在の用語を使えば、カントの「直観」は「表象」であり、「構成」はその直観を使って、一般概念を「例化」(存在量化記号を外すこと、存在例化)することです。例えば、ノートの三角形を表象することが直観であり、固有名詞aをその三角形の表象を指すために使い、例化によって、「(私の心の中で)表象された三角形を(暫定的に)aとする」ことが構成です。これが直観と構成の今風の解釈です。

 概念を分析するのが哲学の仕事であり、概念を直観し、構成を使って定理を証明することが数学の仕事というのがカントの考えです。アリストテレスの論理学の規則は暗記するだけのもので、役立つというより自明のものに過ぎないと見做されていましたから、それに頼る哲学は概念を知るだけで、直観を使いません。例えば、哲学者は三角形の概念を分析するだけですが、数学者は実際に三角形を作図し(構成し)、その図形の直観(表象)を使って諸々の性質を証明します。概念分析しかできないのは形式論理学しか使わないからです。カントは幾何学の定理は形式論理を使っただけでは証明できず、図形の助けを借りて証明されることから、形式論理以外の直観と構成の助けによって証明されるのが幾何学だと考えたのです。

 カントの直観や構成というアイデアは、形式論理学の欠点を補うために生まれました。主に代数的な演算からなるのが形式論理であり、その代数的演算に量化(汎化と例化、generalization and instantiation)操作を加えたのが述語論理です。普遍量化記号∀について、例化と汎化をそれぞれ考えてみましょう。「すべて」について成り立てば、特定のaについても成り立つのは自明です。でも、任意のものについて成り立てば、すべてのものについても成り立つかどうかは余程の条件が満たされない限りわかりません。「真に任意である」ことの保証は簡単ではありません。その保証がある限りでの汎化です。通常は保証できず、そのため現実の世界では帰納法や確率が使われます。では、存在量化はどうでしょうか。こちらは存在汎化、存在例化のいずれについても広い範囲で成り立ちます。ですから、カントは存在例化に着目した訳です。「aがあるから、存在する」、「存在するから、それをaと名づける」は共に極めて広い範囲で成り立ち、後者は分析的ではなく、総合的なプロセスだとカントは捉えたのです。

 現在の述語論理学に従えば、文法の主語(主語の名詞は個体を表す固有名詞、概念を表す一般名詞の両方を含む)ではなく、論理的な主語は個体だけを指すので、変項や定項は個体を指します。実際、この個体について汎化や例化することが形式論理学にはなく、それを加えてできたのが述語論理学なのです。この加えられたものをカントは直観や構成と表現して、数学が単なる分析的知識でなく、総合的なのだと捉えたのです。カント流の述語論理の認識論版だと考えられなくもありません。徹底して平明にカントの数学についての考えを理解しようとすれば、「形式論理学+直観と構成」がカントの枠組みで、それは述語論理学と基本的にほぼ同じだと考えることになります。これでほぼOKなのですが、そう簡単にはいかないのです。

 古典論理は「命題は真であるか偽であるかのどちらかである」という前提(二値原理)に基づいています。ブラウアー(Brouwer)は、カントの直観概念、特に時間の直観に基づいて、「無限」に関する扱いを制限し、人間が実際に構成できる範囲内で、論理の妥当性を考えようとしました。したがって、実際に構成できないものについては真偽の判断ができないことになります。それゆえ、「ある命題かその命題の否定かのどちらかが必ず真である」という排中律(A∨¬A)は認められません。また、Aではないことが真ではないからといって、Aが真であるとは言えないから、二重否定の法則(¬¬A→A)も認められません(したがって、帰謬法の使用も制限されます)。これが直観主義で、「真」であるとは、「証明される」ことであり、否定(¬A)は、「Aが真(=証明される)ならば矛盾が生じる」ということになります。

 時間や空間が何かについて、17世紀にニュートンライプニッツの間で有名な論争がありました。ニュートンは人間とは独立に客観的で、絶対的な時間と空間が実在すると考えました。一方、ライプニッツは時間と空間は関係概念で、物があって初めて存在する相対的なもので、世界がなければ、時間や空間も存在しないと考えました。このような時間と空間に関する論争をカントは知っていました。その上で、『純粋理性批判』の感性論で、時間と空間を直観されたものの、つまり、感覚されたものの「形式」と述べました。「直観する、感じる、感覚する、知覚する、表象する、イメージする、想起する、想像する、知る、わかる、悟る」といった語彙の使い分けはとても微妙な事柄です。

 私たちの心が、空間的には外的直観(対象や事象)を与え、時間的には内的直観(記憶、思考)を与えると、カントは考えました。すべての数学の知識は、直観の純粋な形式についての知識であると彼は主張するのですが、それに由来するのが数理哲学における直観主義だったのです。そこで採用される直観主義論理は、直観主義によって数学を実行するための論理システムで、排中律や二重否定の法則が成り立たないのです。