中高生のための哲学入門(4)

 アリストテレスの論理学は自然言語(natural language、彼にはギリシャ語、私たちには日本語)の文法に基づいており、それゆえ、基本の言明の形は「AはBである」という、AとBの二つの名辞(term、項)が「である」で結ばれた形です。自然言語の文法上の主語は一つであり、一項述語によって表現できるのが基本文型になっています。これは確かに文法では正しいのだが、論理的に基本的な文型ではないのです。それが形式的に明瞭に把握されるには19世紀末のフレーゲまで待たねばなりませんでした。むろん、普通の人は直観的に論理的な規則を理解して、使っていました。言語と論理はアリストテレスでは違った構造をもっていなかったのですが、今の私たちには言語と論理ははっきり違う規則をもつものと認識されています。

 

(問)「象は鼻が長い」という文の主語は何でしょうか。一つの文の中に二つ以上の主語があるのは普通の言語の文法では誤りということになっていますが、日本語ではどうでしょうか。「一つの文に一つの主語」という文法の規則は、「AはBより大きい」が「A > B」と表現される限り、AとBとは共に主語だと考えるべきではないでしょうか。

 

 アリストテレスは推論が言明(命題、より具体的には文)によって表され、二つの名辞MPが「MPである」ように結ばれた言明を推論の構成単位であると考えました。そのため、彼の論理学のシステムは「名辞の論理学」とも呼ばれてきました。そして、推論を構成する基本になる言明を次の4つに分類しました。

 

すべてのMPである   全称肯定型 A

すべてのMPでない   全称否定型 E

あるMPである          特称肯定型 I

あるMPでない          特称否定型 O

 

このような分類を示されると、これですべて尽くされているかのような錯覚に陥るのですが、実は私たちの思考のほんの僅かに過ぎないのです。例えば、次のような推論を考えてみて下さい。「2は3より小さい。3は4より小さい。それゆえ、2は4より小さい。」、「2は3より小さい。それゆえ、3は2より小さくない。」といった正しい推論は、どれもアリストテレスの論理学からは正しいことが証明できないのです。

 

フレーゲの新しい論理的世界

アリストテレスからフレーゲへ]

 アリストテレスの命題の基本型は自然言語の文の形に基づいていました。彼は二つの名辞が文を構成すると考えたのですが、文は主語と述語からなると考えたのがフレーゲです。自然言語の文法では、一つの文に主語は一つしかありません。その一つの主語に述語がついています。主語をx、述語をFとし、「xFである」をF(x) と表してみましょう。すると、アリストテレスの4つの基本型は、

 

すべてのxについて、F(x)

すべてのxについて、¬F(x) (¬は否定記号)

あるxについて、F(x)

あるxについて、¬F(x)

 

となります。ここで、「2は3より小さい」という文について同じことを考えてみましょう。2や3を変数xyを使って書き直すと、「xyより小さい」となり、さらに、大小関係の記号 < を使うと、x < yという式になります。これをF(x) と同じ書き方にすると、< (x, y) という表現ができます。この表現をF(x) と比較するなら、< (x, y) は二つの主語をもっていることになります。一つの文が二つの主語をもつことは自然言語の文法では許されません。でも、文法の形式は文の形式であり、文の内容の形式ではありません。「2は3より小さい」の内容を考えてみると、「3は自然数である」という文の内容が3の性質を述べているのに対して、3と4の関係を述べています。いずれの文も文法上の主語は同じですが、性質と関係という異なる内容をもっています。では、この異なる内容が正しく反映されるようにするにはどうすればよいのでしょうか。文法上の主語ではなく、論理上の主語をもとに内容を表現すればよいのです。2も3も論理上は同等ですから、いずれも論理上の主語として認めるなら、< (x, y) は二つの論理上の主語をもつ表現と考えることができます。すると、この考え方をさらに進め、「4は3と5の間にある」という文はG(x, y, z) と三つの論理上の主語をもつ形で表現できることになります。さらに一般化すれば、H(x1, x2,…, xn) といった表現が得られます。ここには論理的な主語がn個登場しています。

 では、このような論理的な主語を使って、どのように通常の文を書き直したらよいのでしょうか。まず、簡単な4つの基本型について考えてみましょう。すると、肯定形については次のような書き換えができます。

 

すべてのMSである    すべてのxについて、そのxMなら、そのxSである

あるMSである        あるxが存在し、そのxMであり、かつそのxSである

 

否定形は上のそれぞれの書き換えを否定するだけです。「すべて」や「ある」は主語がどのくらいあるかを量的に表わしています。この二種類の量的な修飾をそれぞれ∀、∃という記号で表し、接続詞も結合子で表現すると、肯定形は、

 

x(M(x) → S(x))、∃x(M(x) ∧ S(x))

 

と記号化できます。否定形の場合も同様に記号化すると、

 

x(M(x) → ¬S(x))、∃x(M(x) ∧ ¬S(x))

 

となります。では、複数の論理的な主語をもつ文はどのようになるでしょうか。文「人間の細胞は動物の細胞である」を例に考えてみましょう。論理上の主語が一つの場合は一回の書き換え、二つの場合は二回の書き換えが必要となります。これはまず「すべてのxについて、そのxが人間の細胞であれば、そのxは動物の細胞である」と書き換えられます。さらに、「そのxが人間の細胞である」は「そのxは、ある人間yがいて、そのyの細胞xである」に、「そのxは動物の細胞である」は「そのxは、ある動物yがいて、そのyの細胞xである」に書き換えられます。ここで、F(x):xは人間である、G(x):xは動物である、H(x, y):xyの細胞である、とすると、

 

x(∃y(F(y) ∧ H(y, x)) →∃y(G(y) ∧ H(y, x)))

 

と書き換えられます。書き換えられた記号の式は論理式と呼ばれますが、自然言語の平叙文(「…は―である」の形の文)はこのようにして論理式に記号化できることになります。

 すると、推論はそこに登場する文を記号化し、論理式をつくり、それについての計算を演繹システムで実行し、結論を元の文に翻訳すればよいという手順が自然に出てきます。つまり、ライプニッツやブールの考えが論理式についての計算のシステムという形で実行できることになります。そして、これを成し遂げたのがフレーゲなのです。

 

(問) 次の文を論理式に記号化してみよう。

直線lに平行な線がある。

直線lに平行な線が少なくとも一本ある。

直線lに平行な線は高々一本である。

 

 フレーゲはドイツの数学者、論理学者、そして哲学者です。彼は述語論理の計算システムをつくり、証明の概念を形式化しました。また、言語を包括的に研究し、現在も多くの哲学者がその研究を続行しています。彼は数学を論理に還元することに生涯取り組んだのですが、それには成功しませんでした。

(論理学)

 ライプニッツの思考の言語と理性的な計算という考えを具体化するためにフレーゲは命題を形式的に表現し、それを証明する述語論理のシステムを生み出しました。それは第一階の述語計算と呼ばれることになりますが、数学的な推論を遂行するのに十分なものでした。これはアリストテレスの文を主語-述語で分析することの限界を打ち破ったもので、「証明」は公理または定理から推論規則によって導出された論理式の系列として厳密に形式化されました。

 フレーゲは述語計算のシステムをもとに数学の基礎づけを試みました。彼は論理主義と呼ばれる、論理的概念だけで数学的概念を定義し、論理法則だけから数学的公理を導き出すという考えのもとに、それをGrundgesetze der Arithmetikで実行しました。その中で使われた「抽象の公理」は後にラッセルのパラドクスを生み出すことになります。論理主義は成功しませんでしたが、そこでの成果はラッセルとホワイトヘッドPrincipia Mathematicaにつながって行きます。

 フレーゲは数学や論理の研究と並んで、言語についての考察も行いました。彼の論文 「Über Sinn und Bedeutung」 は今ではこの分野の古典です。彼は言語についての二つの謎を考えます。一つは同一性言明で、他は命題的態度のような文です。両方に共通するのは、語は意味と指示の両方をもち、両方が文の有意味性や論理的な振舞いに不可欠な点です。この考えはその後現在に至るまで大きな影響を与えることになります。そこで、この点を詳しく見てみましょう。

 (同一性言明)

次の同一性言明を例に考えてみましょう。

 

  117 + 136 = 253.

  明けの明星は宵の明星と同一である。

  ビートたけし北野武である。

 

フレーゲによれば、これらはみなa = bの形をしています。彼はa = bの形の文が真になるのは、aが指示する対象とbが指示する対象が同じ場合であると想定しました。明けの明星と宵の明星は同じ金星を指示しているから、上の例文は真になると考えました。しかし、この説明では「a = b」 と「a = a」 の真理条件は区別がつきません。例えば、「ビートたけし北野武」と「ビートたけしビートたけし」の区別がつかなくなります。なぜこの区別が必要なのでしょうか。一方はトートロジーなのに、他方は情報をもっており、二つの文の認識的な意味が異なっているからです。

 (命題的態度(propositional attitude:命題に対する私たちの心的な態度)

 人と命題の間の心理的関係は信念、欲求、意図、知識等があります。これらは次のような文で表現されています。

 

 Apを信じる。

 Apを欲する。

 Apを意図する。

 Apを知る。

 

 Aに「太郎」、pに「ビートたけしはコメディアンである」を代入すると、最初の文について、

 

太郎はビートたけしがコメディアンであると信じる

 

という文ができます。ここで同一性言明「ビートたけし北野武」を使って、代入によって、

 

太郎は北野武がコメディアンであると信じる

 

という文をつくってみましょう。「ビートたけし北野武」から代入によってつくられた文の真理値は代入前の文の真理値と同じ筈です。この推論は太郎が北野武を知らなければ、正しくないのですが、次のような正しい推論に似ています。

 

4は3より大きい。

4は8の半分である。

よって、8の半分は3より大きい。

 

この推論で使われる代入の原理は命題的態度が入った文では成立しません。太郎がビートたけしの本名を知らなければ、代入してつくられた文は彼には正しくないかもしれないからです。

[意味と指示]

 これらの謎を説明するためにフレーゲが考えたのは意味と指示の区別です。「明けの明星」と「宵の明星」は金星を指示しますが、金星を違った仕方で指示します。この違った指示の仕方が意味の違いです。「神武天皇」と「日本の初代天皇」は意味をもっていますが、指示があるかどうかは疑わしいのです。言明全体の意味はその構成要素の意味の関数です。aの意味とbの意味が異なるので、「a = a」と「a = b」の構成要素は異なり、したがって、「a = a」と「a = b」の意味は異なるのです。意味が異なることから認識的にも異なることになり、「=」に関する謎は説明できることになります。

 さらに、命題的態度を表す動詞の後に登場するpは、pだけの場合に指示するものを指示しなくなる、とフレーゲは主張しました。つまり、それら動詞の後では指示対象が異なるのです。これによって、代入の原理が成立しなくなります。したがって、太郎の推論は正しくないのです。