「何を、いつ、どこで」見るのか、そして、考えるのか?

 見るのは「今、ここで」なされるが、考えるのは「いつか、どこか」でも構わない。直接的な感覚経験と知識や意識の経験との違いがここに端的に表れている。これは直接経験と経験についての経験の違いでもある。

私が見ているもの、意識しているもの

<視覚の志向性と意識の志向性>

 何かを見るにしろ、何かが見えるにしろ、「何か」がなければ見る行為は成り立たない。見ることは志向的(intentional)で、見る対象がなければ「見る」とはとても言えない。意識の志向性などとは比べようもないほどに視覚は本質的に志向的なのである。そもそも志向的でない感覚など考えることができないだけでなく、あり得ないのである。情報を外部の環境から得ることと志向的であることはほぼ同義であり、私たちが頭の中だけで色々考えること、感じることは、志向的な対象を取り除いてしまうとほとんど何の意味ももたなくなることを示している。抽象的な思考に志向的な対象は必要ないと思っている向きには、思考を進め、表現する言葉がなければ思考は成り立たず、その言葉の意味には指示対象が不可欠で、指示対象は志向的な対象であることを思い出してほしい。

 意識と視覚のような感覚との違いを問われると、志向的対象が「今、ここ」にあることが視覚の志向性の特徴であるのに対し、意識の場合は記憶や想像の対象が志向的対象になることにその特徴がある。見ている時間(場所)と見ているものの時間(場所)が「今(ここ)」に限定されるのが通常の私たちの生活世界であり、それが意識の志向的対象の時間や場所となると、複数の異なる時間(場所)が登場するという違いがあるいうことになっている。だが、志向的な対象のもつ時間(場所)と、それを感覚し、意識する時間(場所)とが同じではないことがしばしば起こる。そのことを時間を中心に考えてみよう。

<私が見ている恒星>
 私の視覚の志向的対象である恒星は宇宙という外部世界、外部環境の対象。その恒星は私の意識の中にあるとしても、脳の中にはない。しかも、宇宙物理学の知見によれば、その恒星は何億年も前のもの。現在見ている私の視覚像は現在の恒星ではないとなると、私の今の意識の中にある恒星と宇宙に実在する恒星は別物で、同時に存在していないことになる。「見ているものは、それを見ているときに存在している」のは当たり前というのが常識だが、恒星はその反例で、見ているときに見ているものは存在していない可能性があることを明瞭に示している。

f:id:huukyou:20200613090611j:plain

アンドロメダ銀河、Wikipediaより)

 最も遠い恒星はGRB090429Bで、307億2300万光年、アンドロメダ銀河は254万光年、地球と太陽の距離は1億4960万km、0.00001581l光年で、太陽からの光が地球に届くには8分19秒かかる。こんなデータを見ると、夜空の星や太陽を見ている時の風景の中の時間が複数混在することになってしまう。私が見ている星空という風景の中の各々の星はみな違った時間の中に存在していて、私の視覚像は異なる時間が交錯する接点のようなものに過ぎないことになってしまう。私の視覚像では同時性が成り立っておらず、それぞれの像はみな自分の時間をもって存在しているのである。

<私の見ている昭和の都営アパート>

f:id:huukyou:20200613090634j:plain

(辰巳の都営アパート、二つの時代の異なるアパートの間に見えるのは東雲のタワーマンション

 では、私の見ている辰巳の都営アパートはどうか。眼前にある都営アパートを実際に見ている場合、映画やテレビでその画像を見ている場合等々、都営アパートを見ている状況に応じて、その都営アパートは見ている時に実在している必要がない場合が出てくる。私の見ている街は目の前に実在しても、私が画像で見ている過去や未来はどこにもない。昭和にできた都営アパートの後ろには平成にできたタワーマンションが見える。異なる時間に造られた建物たちは(画像の中で、そして)今同時に存在している。そこに奇妙さ、不思議さはないのだろうか。異なる歴史をもつ建物が今同時に存在している。なぜそんなことが可能なのか。歴史は眼には見えない。見えるのは現在の姿だけ。時代の異なる二つの建物が今同時に存在していて、星空の視覚像では成り立たなかった同時性がしっかり成り立っている。私たちは視覚像の中の対象が同時に存在していると信じている。

<二つの過去>
 「過去の恒星」と「過去の都営アパート」の「過去」は同じなのか、違うのか。肉眼で見ても、望遠鏡で観測しても、見えるのは「今、地球に届いている光」であって、リアルタイムでの観測はできない。今見えている光が「最新の情報」。宇宙では「同時性」は成り立たず、リアルタイムもない。「遠くの光」は過去からの情報。だが、それが最新の情報であり、それよりも速い情報を得ることはできない。何億光年も離れた星を観測できる望遠鏡はあるが、時間を進めて(未来を)観測できる望遠鏡はない。
 ここに登場する「過去」、「今」、「時間」等は私がいる地球上で考えられている時刻を基準にしたものであり、私が別の星にいるなら、その基準は変わってくる。
 ニュートン的な古典力学の世界では同時性が成り立ち、見えている都営アパートは今見えているのであり、過去にできたアパートが今まさに見えているのである。見えているアパートは「今のもの」であるが、見えている恒星は「過去のもの」である。この時の「今、過去」は同時性が成り立つ地球上での基準に従ったものである。

<暫定的で、曖昧な結果>
 「今、見ている」時の「今」、これは一体何なのか。「今」を指す、示す指標は探しても見つからない。「今」は危うく、かげろうのような概念で、「今」も「ここ」も見ることができない。時代の異なる建物とそれが共存する今の風景は、「風景が時を含む」ことを意味しているのかも知れないが、過去の恒星と過去のアパートの建物との間には大きな違いがある。建物ができたのは過去だが、そのことは今実際にそこにあることを見る以外の方法で確認できる。それと同じように今見えている恒星もそれが過去の姿であることを確認できる。別の人の観察結果、映像を撮影して確認できるのだが、自分の眼で見るだけなら、二つの違いは見えない。違いを見出そうとするなら、それ以外の方法を使わなければならない。
 「今」が暫定的で曖昧だという結論は私たちの常識的な「今」と合致しない。私たちの「今」ははっきりしていて、ぼんやりしたものなどではなく、瞬間的で、鮮明なのが「今」だと信じている。この感覚と言ってもいいような印象こそが常識の「今」の根拠になっていて、同時性の成り立たない世界の感覚的でない「今」に対する対抗理由になっている。
 だから、いずれの「今」を使うかは正に文脈に依存し、暫定的で曖昧なのである。どうも「今」は宇宙の解明だけでなく、常識の分析にも悪しき影響しか与えていないように見える。

<見る人の座標と見られる対象の座標>

 「今、ここ」を数学的に表現しようとつくられたのが座標系。見る人の座標は当人を原点において設定されるが、見られる対象は個々の対象ごとに座標があてもしかるべきなのだが、一つの座標にまとめられている。そうでないと私たちはまとまった知覚像を手に入れることができないからである。

「今、ここ」を決めるのが座標である。二つはほぼ同じものである。考える人の座標も、考えられる対象の座標もこれほど敏感になる必要はない。見るのは今、ここで見るのであり、見られるものと見る人は同時にいて、見る活動が実行される。ここには強い志向的な結びつきが見られる。見る座標と見られるものの座標はシンクロして同じものとなる。

考える、意識する場合は、いつも必ず「今、ここ」である必要はなく、その意味で偶然的である。だが、見る場合は必然的である。