「私は今ここにいる」と「今ここにいない私を想像できる」

 「私は今ここにいる」という文はいつでも真でしょうか。私はいつでも今ここにいますから、「今ここにいない私」は存在しない筈なのですが、私は「今ここにいない私」をいとも簡単に想像することができます。この違いを象徴的に示しているのが実在と意識の対照的な違いです。「今ここにいない私は存在しない」が古典的な物理世界に実在する私であり、「今ここにいない私を想像できる」が意識的な近代文学の世界の中の私です。

 (物理世界の)実在と(記憶や想像の)意識との違いがあまりに際立つのは決して良いことではありません。実在世界と意識世界の間には大きなズレなどなく、実にうまく対応しているのが普通です。ですから、私たちは的確に世界の状況を把握し、考え、行動できるのです。私たちの意識が異常でなく、的確に機能しているため、私たちは世界の中で支障なく生きていけます。実在世界と意識世界は並行するかのように対応していて、ズレていないのが普通です。二つの世界が違って、一方が他方を否定したり、非難したりということになると、実在世界は不穏になり、私たちの精神は混乱し始め、時には異常という烙印さえ押されることになります。

 適度にズレていると、実在と意識の緊張したせめぎ合いが生まれ、それが科学や芸術を創造する刺激にさえなってきました。情報処理システムとしての意識と情報生成システムとしての意識の間の違いは今でも人間を考える際の二つの異なる思想となっています。異なる思想の根幹に横たわっているのは、「実在世界の中の私」と「私の中の実在世界」です。私たちは巧みにこれら二つを使い分けて生きています。

 歴史的には実在が先に注目され、客観的な世界の仕組みや構造が関心の的になりました。その後、そのような世界を知る、認識する精神に関心が移り、精神の特徴である意識が注目されることになります。前者の代表がアリストテレス、後者の代表がカントでした。そして、実在と意識の並存、そして、せめぎ合いとなった訳です。「私は今ここにいる」を常に真だと捉えたのがアリストテレスだとすれば、「今ここにいない私を意識する」が時に真になると捉えたのがカントだと言ってもよいでしょう。

 これまでこのような対比が目立たなかったのは、「私は今ここにいる」ではなく、物体Aについて「Aが今ここにある」が対象になり、「私」が明示的に入っていませんでした。また、「今ここにいない私を意識する」は自意識ばかりに関心が集まり、「今ここにいない私」の存在論は考慮されませんでした。要するに、単に「ある、実在する」と「意識する、思う」だけが注目され、「私、実在、意識」が一緒に登場する状況は無視されてきたためと考えることができます。

 実際、私、実在、意識がどのように共在できるかのモデルは経験的に、試行錯誤的に構築していくしかないのが実情です。ですから、AIの使い途の一つなのかも知れません。