アイデアの歴史に関する幻想と夢想の狭間(スケッチ)

 もし釈迦ではなくキリストがインドに生まれていたら、もし科学革命が中国で起こっていたら、もしプラトンが日本に生まれていたら、といった仮定を真面目に考えるならば、そのような仮定を置いた歴史はそれでも同じ現代を生み出していただろうか、と必ずや問うてみたくなるのではないか。決定論的な因果関係として出来事の経緯や系列を理解しようとして、このようなif thenの文を一切認めないとすれば、歴史には夢もロマンもなく、淡々とした事実の系列と化して、誰も歴史に対して興味を失ってしまうのではないだろうか。私たちが歴史に夢をもつのは、反事実的な仮定を置いてあれこれ空想してみることにあるのではないか。このような仮定を過去の事実の間に置いてみることによって、何がどのように変わるかの思考実験をしてみようというのが私の幻想あるいは夢想であり、特にこの思考実験をアイデアや思想の歴史に対して遂行してみたいのである。

 これを別な仕方で表現するなら、「AならばB」という条件法的な文について、AはBを論理的に帰結しない、Aの仮定のもとで、Bは経験的、物理的に新奇である、Aが成り立つ中で、Bは歴史的に偶然的である、といった状況を歴史の中で探ってみようという訳である。このような仮定Aは出来事の歴史だけであれば荒唐無稽なのだが、観念やアイデア、思想や宗教教義の歴史となれば、状況はすっかり変わってくる。実在する世界の出来事や事実の歴史は物理学的な因果法則によって表現と説明がなされるのだが、アイデアや言語表現となると、「釈迦がヨーロッパに生まれていたら、何が変わっていたのだろうか」といったことが仮定できるようになり、それだけでも、予測ができない歴史がアイデアや思想を含んだ歴史として存在できることがわかるだろう。

 私たちにわかるのは自然の出来事で、それは物理学の知識によって説明される。だが、私たちにわからないのはそれを表現する知識の本性である。その知識が真なのかどうか、なぜ真なのか、なぜ偽なのかといった疑問は知識についての疑問である。とはいえ、アイデアや知識が歴史をつくるだけでなく、それらは同時に歴史の一部でもあり、思った以上に厄介なのである。

 プラトンは神的な製作者(デミウルゴス)が地水風火の自然の物象を制作するという神話を説いた。アリストテレスは質料と形相からなる存在の間の関係を可能的な状態が現実的な状態になると考えることによって、プラトンイデア論から神話的な要素を洗い流し、かつそれをさら徹底した。そして、歴史が経過し、キリスト教社会はギリシャ哲学と出会うのである。特に、プラトニズム(ネオ・プラトニズム)とアウグスティヌスの出会いはその後の教会の歴史を決定づけた。その後のトマス・アクィナスによる総合、そしてオッカムの分離も中世社会での大きなパラダイムシフトである。

 ギリシャ哲学への西欧キリスト教側の態度は次の二つに大別できる。

 

(1)知るために信じる、知解のための信仰

アウグスティヌス、アンセルムス、ボナベントゥラ、トマス、ヘーゲル、マリタンなどで、

ギリシャ哲学を肯定的に信じる。

(2)不条理ゆえに信じる

スコットス、オッカム、ルター、デカルト、カントなどで、キリスト教ギリシャ哲学を峻別し、ギリシャ哲学を拒否する

 

 ギリシャ哲学とキリスト教の関係となれば、プラトニズムが大きな影響力をもっていたことがわかる。プラトンの『ティマイオス』で展開されたコスモロジーは、デミウルゴスの神話の形を取り、それが旧約の「創世記」の解釈として重ね合わせられるからである。プラトンの弟子であるアリストテレスはこれを単なる神話として斥けるのだが、グノーシス主義や新プラトン主義の影響のもと、フィロンは「創世記」を解釈するためにプラトンの創造説を利用する。新プラトン主義のプロティノスの『エネアデス』では、一者から知性、魂、質料が下降的に流出し、このプロセスによって可感的な世界ができると世界創造が説明される。フィロンの解釈は「創世記」と『ティマイオス』の類似性に基づくもの。世界が永遠であるとし、神話物語を一切使わずに世界を実在論的に説明しようとするアリストテレスの著作は創世記神話の説明に向かない。それが理由で、ヨーロッパ中世はアリストテレスではなくプラトンを選ぶことから始まり、トマスに至ってアリストテレスの見直しが行われるというのは、苦笑を禁じ得ないことに思えてならない。マニ教徒だったアウグスティヌスギリシャ哲学、特にプラトニズムを受容しながらも、キリスト教とは違うことをはっきり自覚していたのだが…

 自然神学、自然哲学、物理学とつなげるにはプラトンではなく、アリストテレス形而上学が有利になる(例えば、インペトス理論からニュートンの運動法則へのシフト)。自然世界に関する詳細な観察、記述を含むアリストテレス哲学はアラビア世界に迎えられ、12世紀にその著作のアラビア語訳、ラテン語訳が行われ、西欧のキリスト教圏に知られるようになる。だが、プラトンイデア論と違い、彼の世界永遠論、質料形相論は無からの創造に合致しなかった。神話物語と相容れないアリストテレス形而上学、自然学は合理的な自然の説明のプロトタイプであり、歴史的な物語とは違っていた。聖書の教えは物語を中心とした教義であり、アリストテレスの哲学とは相性が悪かったのだ。

 科学革命はプラトンアリストテレスの哲学の踏襲ではなく、全く異なるものをもっていた。プラトンアリストテレスのテキストの注釈をするのが哲学であるという考えから、テキストではなく、直接に実験、観察を行うことによって知識を得るのが科学だと変わっていく。また、自然現象を数学理論としての知識を使って説明することは神話物語から天変地異を理解するのとは大きく異なっていた。科学革命が革命であるのは次のような論理構造があるからである。

 

A(プラトン)を仮定することによって、Bが説明できない

C(アリストテレス)を仮定することによって、Bが説明できない

それゆえ、B(科学革命)はいずれの仮定からも説明できず、思いつくどのような仮定からも説明できなければ、Bは真に新しいものである。だから、Bは新奇で、偶然であり、予測不可能なものである。