我流の哲学史雑感(7)

プラトンイデア論:観念論の誕生
 プラトンの西洋哲学への貢献となれば、イデアの解明とそれにもとづく観念論的世界観の確立である。プラトン以降の西洋哲学は個別と普遍、現象と実体、存在と知識、世界の認識論的解明といった諸問題について探求してきた。そして、それら諸問題のどれもプラトンによって初めて体系的に問われたものである。プラトンイデア論は、『テアイテトス』で概念的な知識の探求に始まり、『ソフィステース』、『パルメニデス』ではイデアの根本規定に関する解明が行われ、『国家論』における宗教的な議論に至る流れの中で展開された。プラトンが最初にイデア的なものの存在を確信するようになったのは、彼の師ソクラテスの影響によるものだった。ソクラテスは具体的な事象から出発して、弁証術を駆使しながらそれらの事象を次第に抽象していき、個々の現象を貫いて普遍的に妥当する概念的な知識の存在を力説した。そして、彼はこの概念的な知識は客観的なものではあるが、人間の知識の中に、あるいは人間の知識の対象として存在すると考えた。
 ソクラテスと違って、プラトンはこの概念的な知識が客観的のみならず、それ自体が実体をもった存在者だと主張した。観念が実在するという立場が観念論だが、プラトンは最初の観念論者になった。プラトンの観念論にはパルメニデスの影響がある。パルメニデスは「ある」ものとしての存在を一元論的に展開したが、他方では「あらぬ」ものとしての仮象を否定した。パルメニデスは、存在者が一で分割不能だと主張したが、それと仮象がどのような関係にあるかについては、何も述べなかった。彼の著作『自然について』は、第一部で存在者を、第二部で現象の世界を扱っているが、この両者は離れたままである。プラトンヘラクレイトスの説を通して、感覚的なものは永遠に流動すると考えるに至った。流動し変転するものに恒常的な知識は成り立たないから、感覚の世界を超えた恒常的な世界がなければならない。だが、その恒常的な世界は、パルメニデスの言うように感覚的世界と無関係なものではない。イデアは感覚的なものを超えつつも、それの原因となるようなものでなければならない。こうして、プラトンパルメニデスヘラクレイトスを総合し、概念的な知識の対象としてのイデアが実在し、しかもそのイデアが現象界とかかわっている、と考えるようになった。
 プラトンイデアとはどのようなものだったのか。パルメニデスにとってイデアとは分割不可能な一であり、個々の多様な現象とはなんら関わりをもたないものだったが、プラトンイデアは一つではなく、多数ある。そして、その多数のイデアはカテゴリー上の系列をなして、下位のものから次第に上位のものへ、最後は至上のイデアとしての善や神があり、階層的につながっている。現象界に多様なものがあるのに対応して、イデアも多様である。イデアとはもともと個別を貫通する普遍的なものを指している。それは多様な現象の内にある共通のものである。そして、プラトンはこのイデアに実在性を付与した。
 プラトンは『国家論』の中で、イデアと現象界との関係を、有名な「洞窟の比喩」を用いて説明している。洞窟の中の囚人たちは縛られて身動きできず一つの方向しか見ることができない。彼らの背中には火があり、彼らの前には壁がある。その火の光が壁の上に作り出す影を、彼らは実在だと思っている。真実をいえば、実在は火であり、彼らが実在だと勘違いしたものは火が作り出した影、つまり仮象である。プラトンはこの比喩を通じて、イデアが原型であり、事物はそのコピーだと主張する。アリストテレスはこのような表現を単なる「詩的比喩」として否定した。しかし、実在と仮象という対立は、その後の哲学の枠組みを大きく制約してきた。プラトンイデア論の影響はそれほど大きかったが、理念的なものに実在性を付与することは今はナンセンスと思われている。

アリストテレス形而上学:質料と形相
 アリストテレスの著作『形而上学』は、アンドロニコスによって分類整理された際、自然学の後におかれた。そこから「メタ・タ・フィシカ(自然学の後に)」と呼ばれた。この言葉が転用されてメタフィジカとなり、この書物の中で展開されている思想が「形而上学」と呼ばれるようになった。
 『形而上学』は広範な領域の知識を扱うが、最も重要な部分は「存在としての存在」を研究する点にある。形而上学は、自然や人間社会など特定の存在領域に関する個別の学問を超えて、存在を存在たらしめる究極の根本原理に関する学問である。アリストテレス自身はそれを第一哲学と呼び、後世の人々は「形而上学」と呼んだ。アリストテレス存在論は、師プラトンイデア論との対決を通じて、普遍的な存在と個別的実体との新たな相互関係の中で、イデア的なものを位置づけ直すところに本質的な意義がある。
 アリストテレスの課題は、個別的な事象と普遍的な存在とを同一の平面において結びつけ、総合することにあった。アリストテレスによれば、普遍という名詞によって意味されるものは、多くの主語の述語となるようなものである。個体とはそのように述語とならないものである。固有名詞によって意味されるものが「実体」であり、「人間」というような集合を現す名詞によって意味されるものが「普遍」である。普遍は現実の「このもの」ではなく、したがって実体とすることはできない。一般名詞の意味するものが、固有名詞の意味するものに依存していて、その逆ではない。アリストテレスによれば、「いかなる普遍的名詞も、実体の名称であることは不可能だと思われる。なぜなら…それぞれのものの実体は、それ独特のものであり、他のいかなるものにも属さないからである。しかし普遍は公共的である。なぜなら一つ以上のものに属するものが普遍と呼ばれるからである。」アリストテレスはこのように考えて、「普遍」つまり「イデア」の実体性を否定し、それを論理的な述語に移し変えてしまう。このようにして、普遍は述語として位置づけられ、論理学という同じ平面の中で、主語となる個別的存在と結びついて言明をつくるのである。したがって、アリストテレス形而上学は論理学を前提にして構築されていることがわかる。
 普遍と個別的実体との関係と並んで、アリストテレス形而上学の主要な主張は、質料と形相に関する説である。例えば、大理石の像を例に取ると、大理石はその像の質料であり、像の姿や形が形相である。大理石はそれのみによっては単に石の塊に過ぎない。石工がそれに形相を付与することによって、始めて像となる。だが、その像は質料としての石を離れては存在し得ない。このように、アリストテレスは個別の実体の中に、質料と形相という一対の概念を持ち込むのである。
 では、事物を事物たらしめているのは何か。アリストテレスの答えは形相である。質料はそれ自身では何にでもなりうるが、現実には何でもないものである。それを何ものかにするのは形相である。だから、形相こそが個別的存在をそのものとしてあらしめる本質なのである。何ものでもなく、また何ものにもなりうる可能性を備えたものは、「可能態(デュナミス)」と呼ばれた。質料に形相が付与されてある特定のものが生成したとき、それは「現実態(エネルゲイアあるいはエンテレケイア)」と呼ばれる。このように事物の生成とは、デュナミスからエネルゲイアへの移行として捉えられる。特定の質料と特定の形相とが結びついてあるものが出来上がるとしても、そのあるものがまた別のあるものの素材となることもある。この場合には、はじめのものの形相が、次のものにとっては質料となる。このように、形相は、下位のものから上位のものに向って階層をなし、純粋な形相は質料を持たぬ本質、つまり、純粋概念ということになる。
 アリストテレスは演繹的推論としての三段論法の定式化で有名だが、彼の論理学が後世に及ぼした影響の中にカテゴリーに関する議論がある。カテゴリーとは、存在のもっとも普遍的な規定であるような諸概念をさす。それは論理的に整理された存在の諸様相の一覧表であり、体系的な存在論の試みとして後世の学者たちは解釈してきた。アリストテレスはカテゴリーとして、実体、分量、性質、関係、場所、時間、位置、状態、能動、所動の10個を挙げている。彼がカテゴリーの定義としているのは、「いかなる点からみても複雑ではない表現の意味するもの」ということだが、要するに存在のもっとも単純で、他の性質に依存しないような究極の在り方である。アリストテレスはこれら10個のカテゴリーのうち、実体をもっとも根源的なものと位置づけ、残りのカテゴリーはそのさまざまな様相にかかわるものだと考えた。実体とは、アリストテレスによれば、「主語に述語として付け加えることができないものであり、また述語の中には存在しないもの」である。要するに、述語となるような諸々の性質の主語となるものであり、そのすべての性質から区別されるものである。諸々の述語にとって共通の主語となるもの、それがアリストテレスのいう実体というわけである。
 実体をめぐる議論はその後、実在論唯名論の対立として、中世哲学の最大のテーマになった。実在論者は、神をはじめさまざまなものの実体が存在すると主張し、唯名論者は実体とは主語と述語の間に成立する関係を表す操作的な概念にすぎないと主張した。実体とはさまざまな性質や出来事を束にしてまとめるための便宜的な説明手段といえる。言語学的には、さまざまな述語を束ねる共通の主語といってよい。人間は、この共通の主語をいついかなる場面でも同一のものとして意識するからこそ、出来事の連続性や存在の恒常性について確信がもてるのである。
 アリストテレスの自然哲学は、プラトンに集約されたギリシャ古来の伝統的自然観にアリストテレス独自の質量形相論を接木したもので、人間を頂点とする目的論的自然観の展開となっている。アリストテレスの自然哲学はきわめて目的論的色彩の強いもので、彼が依拠したギリシャ語の自然=フュシスという言葉には、本来成長とか目的とかの概念が含まれていた。自然は4元素からなり、それらがたえず互いに結合しあいながら生成の過程を辿っている。無機的なものから植物へ、植物から動物へ、そして動物から人間へと、その生成の過程は段階的な階層をなしており、その頂点に来るのが人間である。植物の機能は栄養であり、動物の機能は感覚、高等動物は場所的運動をもつ。そして、人間は思考あるいは理性を持ち、世界を把握する能力を有している。そして、アリストテレスはこの理性を肉体から分離して考えている。理性は肉体的な機能と内的な関わりを持たず、外からやってきたもので、肉体が滅びてもそのものとして独自に生き続けると考える。ともあれ、アリストテレスの自然哲学では、すべての生成は目的を持っている。その目的とは形相のことだが、もっとも高い段階の形相は精神である。人間はその形相が実現された、世界の頂点となる存在である。