古典的世界観と日常世界:20世紀版

 私が学生の頃は「古典的世界観」は端的に誤りで、量子力学に代表される非古典的世界観こそ正しいものだと誰もが考えていたように思います。その20世紀版の考えが今でも継承されているかどうか、私には定かではないのですが、若い頃の古典的世界観について再度考えてみることにしましょう。古典的世界観は私たちの生活世界を支え続けてきた世界観で、古典力学が成り立つ世界が私たちの住む世界だというのがその端的な主張です。この世界観は、点とその連続的な運動(つまり、線や面)をモデルにした世界観です。

 言語、表象装置としての幾何学を信頼し、それを省いて表象内容だけを取り上げるのがプラグマティックな生活世界のやり方です。知識の分業結果として幾何学を知らなくても幾何学の結果だけを使うことができ、それが素朴実在論につながっています。言語や表象装置を中立化し、透明化すること、それが生活の知恵であり、その結果、自然を直接に感じ、把握し、理解できると信じ、行動できることになります。

1古典的世界観の骨格

 古典的世界観は古典力学の結果であり、古典力学の主張の一般化です。古典力学の基本モデルは質点モデルです。質点モデルは不変の質点の連続的運動変化が古典的な世界の原型、雛形であることを示しています。質点には生死がなく、質点の運動変化の軌跡に因果的な関係を直接読み取ることはできませんが、生死をもつ対象の運動変化は因果的であることになっています。原因と結果の非対称性は生(あるいは死)によって生まれます。

 質点の揺るぎない実在性、その位置と時間的変化の確定性から世界の変化の明確な姿が浮かび上がってきます。そこでは「質点の確定性原理」が前提されていて、その結果としての決定論が古典的世界観の骨格になっています。

2生活世界の中の古典的世界観

 生活する中で古典的世界観は素朴実在論、直接実在論に帰着します。そして、実在する世界に対する確固たる信念がそこでつくられてきました。世界は私たちとは独立に実在し、それが決定論の成立する姿なのです。決定論的な姿で実在する世界、それが客観的な実在世界であり、それは表象に関わる微妙な事柄をすべて巧みに省略して出来上がった、プラグマティックな生活の知恵でもあります。それゆえ、人が表象に関わることに気づき、それを気にし出すと、「客観的実在」といった概念が揺らぎ始めるのです。

 文法規則を常に気にしながら話し、書き、読む場合とそれらを無意識に使う場合とで何がどのように異なるのでしょうか。言葉が主人公ではなく、言葉が語り、述べ、描く内容そのものが主人公になります。それと同じことが古典的世界観の場合にも成り立っています。言語無しに成立している世界が当たり前の世界だと誰もが思います。言語以前に世界が実在するから、というのがその理由です。同じように、幾何学以前に世界が存在したからである、という理由が実在論の強い証拠となってきました。

3心身問題

 古典力学に心は登場しません。心は質点ではなく、物理量をもつ対象でもありません。古典力学の世界は純粋に機械論的です。生活世界に溢れる心的なものは古典的な世界の中には居場所がありません。これがデカルト的な二元論につながっています。そして、その帰着の一つが「自由と決定」のアポリアです。このアポリアは古典的世界観が生み出した厄介な問題で、それだけでも古典的世界観が問題を孕んだ世界観であることを示しています。

4決定論

 確定性の原理は存在論的、認識論的の二つに分けることができます。そして、実際の考察、探求の場面では認識論的な確定性原理が使われることになります。決定論あるいは確定性原理は表象装置を意識的に明確化することによって、一層明らかに表現できます。実在論から決定論への議論の精緻化によって、理解のための装置の介在が浮かび上がってきます。そこから、決定論は認識的なものであり、理論に相対的に決まるものであることになります。

 同じように非決定論も理論が非決定論的であることから帰結するもので、不確定性原理あるいは非決定論が存在することになり、それらは同じように認識的な主張です。認識上の非決定性は、ゲーデル不完全性定理からハイゼンベルク不確定性原理まで、様々な不可能性の定理を含んでいます。

5観測、実験の意味

 プラグマティックに対象を扱い、その結果を使って行動する場合、その対象について知る装置や方法については意図的に無視するのが適切なやり方です。でも、「これは何か」といった問いの対象になるような場合、その対象を知るには知り方や知る方法が意識化される必要があります。さらに、実験や観察の場合、実験や観察の環境、文脈、そして装置に関する詳細な知識が不可欠です。日常生活での知覚はそれを使って行動するために必要な情報であり、それ自体が対象となっていません。そこでは見ること、見る対象はいずれも脇役であり、見た結果を使うことが主役なのです。

 古典的な註釈は、実験とは違い、注釈する命題の内容は日常の生活世界での内容です。観測や実験がじっくりと自然を眺める方法であり、理論が俯瞰的に眺めるのと同じような効果をもっています。サッと眺める、素早くみる、チェックするのではなく、腰を据えてじっくり見つめ、丁寧に見逃すことなく調べるのが実験や観測です。これは、例えば、20世紀の生物学における実験動物をみればよくわかります。博物学の時代にはすべての生物をくまなく、公平に眺めることを旨としていましたが、20世紀の実験室では前半はショウジョウバエ、後半は大腸菌に集中しました。二つの生物だけをじっくり、徹底的に調べ尽くすことがすべての生物を調べることに繋がっていて、それが20世紀の生物学の成功をもたらしたのです。