因果律が成立しない反実在論的な量子力学の世界

 20世紀に入るやアインシュタイン相対性理論を発表し、量子力学が登場し、物理学が大きく変貌します。量子力学は、自然界のエネルギー、例えば原子のエネルギーが連続ではなく、とびとびの値しかとらないことを主張し、それが半導体技術などに応用され、私たちの生活に欠かせない理論になっています。
 相対性理論はそれまでの世界の見方、時間と空間のとらえかたを大きく変えて、時間と空間が融合した「時空」の存在を明らかにしました。しかし、相対性理論は、人間による認識から独立した客観的な世界が存在するという考え(=実在論)を変えることはありませんでした。でも、量子力学は、1920年代に形式化=数学化されますが、微視的世界の客観的描像について物理学者たちを悩ませ、議論を惹き起こしてきました。量子力学は、「人間による認識から独立した客観的世界」という考えと矛盾するものをもっていました。そこで、量子力学は客観的世界の描像を与えてくれるのかどうか、さらには、「認識から独立した客観的世界」という考え方に意味があるのかどうか、といった哲学的問題について議論が続くことになりました。その中核をなすのがアインシュタイン・ボーア論争です。
<古典的世界像を描けない量子力学
 量子力学を使って計算ができ、実験結果の予測がうまくできれば十分であると考えていたのではアインシュタインとボーアの論争に対する答えが出せません。二人の論争は、量子力学という理論や微視的世界に関する実験が、世界の存在に対してどういう意味を持ち、そこにどのような客観的世界が現れていると考えるべきかといった原理的な問題に関する議論でした。結局はボーアが勝利を収め、ボーア陣営のコペンハーゲン解釈量子力学の正統的な解釈として受け入れられるようになります。しかし、本当のところは、きちんとした決着がつかないまま今も議論が続いているのです。
 ギリシャ哲学以来、自然観や世界観は多くの人の関心を集めてきました。ところが、物理学の基礎理論として生まれた量子力学は明確な世界像を与えてくれません。そこから、世界は人間による認識から独立した仕方で存在しているはずだという古典的な前提の再検討が必要となってきました。量子力学が確定した世界像を与えてくれないという問題は、電子などの微視的対象が粒子でもあり波でもある二重の性質をもつことに現れ、それはまた観測に関係する問題でもあるのです。
<微視的対象のもつ二重性>
 19世紀に電磁気学が成立し、「光は波である」と確証されましたが、光電効果コンプトン効果の発見によって、粒子であるとも考えざるをえなくなりました。逆に、電子は、もともと19世紀末に陰極線の実験などで発見されたときは粒子でしたが、その後回折現象が明らかになり、波としても考えざるをえなくなります。そして、実験事実に関する数学的アルゴリズムを求めようとしたハイゼンベルク行列力学を、波という実在的なものの記述を与えようとしたシュレーディンガー波動力学をそれぞれ定式化し、物理的には同等な理論ができました。そして、ボルンによって波動関数の確率解釈が出され、数学的には量子力学はは一応の完成をみるのです。
 結局、光や電子について、一方では波として説明せざるをえない実験事実があり,他方では粒子として説明せざるをえない実験事実があることになります。これは大変不思議なことで、首尾一貫した客観的な世界像が描けないことになります。自然界に存在する物質は粒子でできているとも、波でできているとも言えないことになるからです。
<本質的に確率的な世界>
 例えば、位置とか運動量とかエネルギーといった物理量を微視的対象について実験により観測すると、その観測の結果は本質的に確率的になります。「本質的に確率的」ということは、完全に同じ設定、手順で実験しても、その実験結果がばらつくのです。そのため、実験(観測)結果は確率的にしか表現できません。古典力学では地球の位置は正確に予測できますが、量子力学では電子の位置は確率的にしか予測できません。
 古典力学で統計的表現を使う理由は、あまりにも関係する要素が多くて複雑なために、統計的に表現せざるをえない、同様に、天気予報の降雨予測も、関係する要素が多すぎて複雑であるために確率でしか表せない、と考えられています。十分な情報、データがないので確率を使うという訳です。量子力学での確率の意味は、こうした古典的な確率概念とは違います。ごく少数の変数で完全に表現されていても、観測結果は確率でしか表せないのです。ミクロの世界は本質的に確率的な世界なのです。
<ここかと思えば、またあそこと、その出現は変幻自在>
 ある領域の電子の位置を観測するとしましょう。観測する直前にも電子はその領域に存在し、観測してその電子をそこに発見した、というように考えるのが古典的な常識ですが、それができないのが量子力学。観測の直前には、電子は様々な異なる空間領域に現れる可能性として波のように広がって存在しています。完全に同じような広がり方をしている電子をいくつか観測すると、ある電子はここに現れたり、別の電子はそこに現れたりするのです。ということは、観測直前にどこかの微小な空間領域に存在していたというような、はっきりした像が描けないということです。これは、古典力学と決定的に異なる量子力学独特の特徴であり、そのため「観測問題」と呼ばれています。ある時刻の位置を予測するために太陽を観測したからといって、太陽の動きに影響を与えるわけではありません。ところが、電子のような微視的対象の世界では、観測することが微視的対象の状態に影響を与えてしまうのです。
 このことは、観測のための光が太陽に当たっても,太陽は大きいから影響を受けないが、電子はきわめて小さいので、光を当てれば、当然、状態が変わるだろう、というように単純に考えるわけにはいかないのです。微視的対象の状態の変化は、古典的な考えの下では納得のできない変化であり、そもそも微視的対象の「状態」が不思議な状態なのです。
観測問題のパラドクス>
 観測問題のパラドクスを見事に表現しているのが有名な「シュレーディンガーの猫」です。1935年、彼はは量子力学のパラドクスを考えつきました。箱の中に1時間に原子が1個崩壊する確率が1/2 となるくらいのごく少量の放射性物質と、放射線検出装置、致死性の毒ガスの入った容器を置きます。放射線検出器が放射線を検出すると付属のハンマーが毒ガス容器を割って毒ガスが放出されるようにしておきます。その箱に生きている猫を入れ、ふたを閉めます。1時間経ったとき、放射性崩壊が起こって猫が死んだ確率は1/2であり、放射性崩壊が起こらなくて猫が生きている確率も1/2です。そのどちらが生じているかは、箱のふたを開けてみるまで、誰にもわかりません。しかし、量子力学は、猫がどうなっているかについて「私たちが」知らないということではなくて、もっと不思議なことを主張しています。
 量子力学が主張するパラドクシカルな点は二つあります。まず、箱のふたを開ける前は、猫は生きているのでも死んでいるのでもなくて、生きている状態と死んでいる状態の「重ね合わせ」の状態にあると主張します。量子力学では、猫が完全に生きている状態を数学的には一つのベクトルで表します。また、猫が完全に死んでいる状態も別のベクトルで表します。そして、この二つのベクトルの和である第三のベクトルを作ることができますが、この第三のベクトルがふたを開ける直前の猫の状態を表している、と量子力学は主張するのです。この第三のベクトルが表しているとされる状態はまったく理解不可能な状態。というのも、この第三のベクトルが表している重ね合わせの状態というのは、決して観測されないからです。
 もう一つのパラドクシカルな点は、次のようなもの。箱のふたを開けると、上に述べた理解不可能な状態が、生きた状態か死んだ状態かのどちらかに瞬間的に変化するとされる点です。実際にふたを開けたときには、そのどちらかしか観測されず、ふたを開ける直前は、第三の不可思議な状態にあったので、ふたを開けたとたんに、状態は、確率的に、瞬間的な変化をしなければなりません(波束の収縮、崩壊)。この瞬間的な変化とは、いったいどのような過程なのでしょうか。はたして、そのような変化は物理的な過程なのでしょうか。
 このようなパラドクスから、量子力学のいう「状態」が、個々の対象の客観的な状態を表していないかもしれないという疑念が生じることになります。
反実在論と実践的な量子力学
 物理学者と科学哲学者たちが、この量子力学の解釈問題を解いて、客観的な世界の描像を得ようと挑戦してきました。さまざまな提案がなされていても、相対性理論のからんだ「場の量子論」については、今のところ糸口すら見つかっていません。もしかすると、微視的世界については、ボーアが言ったように、観測から独立した実在という考えそのものを変えなければならないのかもしれません。そのような世界は、因果律が成立しない反実在論的な世界になります。しかし、アインシュタインが死ぬまで考えを変えなかったように、本当は因果律の成立する客観的な世界が実在しているのかもしれません。
 非因果的な反実在論的な世界において、私たちの存在はどのようになるのでしょうか。本当に科学の営みが反実在論的になったら、古代ギリシャ以来の伝統であった自然認識としての自然科学が否定され、自然科学を単に技術的な応用のための道具とみる見方になってくるのかもしれません。しかし、現実には、自然の統一的な描像を描けないままに、現代技術は量子力学をどんどん活用しています。